otomisan

荒野の処刑のotomisanのレビュー・感想・評価

荒野の処刑(1975年製作の映画)
4.2
 幸か不幸か、犬も歩けば棒に当たる、というが怨敵チャコを討ち取ったスタビーを最後、追っかけてくるのが犬という。こいつが終の相棒というわけか、お後が宜しいようで。

 この犬で終わるスタビーが、話の初めにはパリッとした白尽くめもいかがわし気な詐欺師で、「ヨハネの黙示録」で云うところの四騎士の第一号、白い馬の代わりの白尽くめも滑稽じみて可笑しい。なら、のこりの三騎士とは、スタビーをとっつかまえた保安官のところで同房する酔っ払い、墓掘り、娼婦の妊婦ということか?馬とは無縁そうであまり真っ当でもない彼らだが、4人お似合いといえばお似合いか?
 ところが、イリーガルな4人が房中コガネムシ賭博で沸いてる外では謎の白頭巾隊が殺到し街のそこここで人を撃ち始めるが保安官はいかにも申し合わせ通りと晩飯に忙しい。種を明かせば、街にはびこった悪党連を掃滅する有志団とのこと。第二の騎士「戦争屋」はこちらにいたのだ。すると、事実上無害な3人はスタビーこと白い騎士のキリスト教による支配下に集う眷属というわけだろうか。それなのに、悪党掃除ののち、街をおん出されてから被る苦難の連続もまた象徴的だ。

 さて、第三の騎士が「黒」であるなら、それは自ずと4人の中の黒人男、墓掘り人であろうが、その不気味な実相はのちのち劇的に知れることになる。緩慢に人を苛む飢えとそれへの端的な解を用意する彼はあらかじめ「死」の紹介が済んでいることを望むだろう。そこで第四の騎士「死」が慇懃そうに現れる。
 地上ではチャコと名乗るガンマンが4人の食糧調達を担い、取入り、先住民伝来の秘薬を用いて眷属らを恍惚化させたのち本性を現す。妊婦を犯し、酔っ払いの足を撃ち、四人組に死の先鞭を付ける。このチャコが蒼褪めた馬に跨らずヌルりと現れたのが、平穏と豊かさを約束しながら背後を襲うようでいかにも偽装めいている。そして、以来、彼らはチャコによる死の臭跡を辿る格好になり、やがて犠牲のなかに、スタビーとバニーを夫婦と勘違いしてくれたスイス人入植団一行を見出だし、スタビーはチャコ等の掃滅を誓うに至るが、その戦いの前に、酔っ払いの死との対面、飢えへの異様な決着を付けなければならない。
 飢えを司る第三の騎士がなぜ、白い騎士の眷属の中から狂気含みの姿で現れるのだろう。つまり、神の支配の下で人間はなぜ飢えを招くのか、ということである。1972年にローマクラブから公表された「成長の限界」説にあるように、やがて飢えが世界を覆い人々が互いに限られたものを取り合うようになれば、何が始まるかは自明だ。
 しかし、その一方で、奪うことも叶わず、自制も果たせずにいたら、何を食べて暮らすのだろう。その一つの答えが人肉食となる、ということである。そこで思い出すのは、同時期の映画2本、「ソイレントグリーン」と「アンデスの聖餐」である。それらとは一線を画して第三の騎士が、「死」に苛まれた4人の中で狂気を一身に纏って酔っ払いの死肉を死地を脱するための賦活剤として提供する。
 アンデスの飛行機事故の生存者たちの人肉食が関係者内、あるいは教会人の間で問題とされるところが少なかったように、スタビーもまた墓掘り人の振る舞いを深く問わない。しかし、それに至った彼の狂気の方をむしろ忌避する。そして墓掘り人もまた二人を避けるように描かれ、もしくは描かれる事を拒まれこの件は不問、もしくは封印されるのだ。しかし、とりあえず不問とせざるを得ないこの問題、進退ならぬ窮地で狂気が何をしでかすか、あるいは、狂に至るほどの困窮を救えない事の出口のなさを伝えるようでもある。
 墓掘り人がどうなったのか、ゴーストタウンのあちらの窓、こちらの物陰から彼が二人を凝視してくる気配に耐えて、スタビーは退散せざるを得ない。このくだりの恐ろしさは人間の敵は何か、新たなタネというより、忘れかけていたそれら諸々が百鬼の夜行と出くわすように突き付けられる怖さ、しかもそれ等はヒトの形を成す者等である事の恐ろしさを覚えたのではないか。

 それだけに、続いて起こるのは「ハッピー」の誕生とバニーの死という悲喜ないまぜではあるけれど、女は雌のラバ一頭だけ、すれっからしな男どもばかりの金鉱町に結果パブリックな魂を吹き込むことになるのを輝かしく感じる。それこそが、この物語のハイライトにして主題であると感銘を受け、また、狂を脱したことに人心地着くのである。
 バニーの男児、ハッピー出産の一件が野郎ども間で性別賭博に始まって、やがてみんなの子、町の子とみなが思うようになる。こうして、魂を取り戻した男どもは稼ぐばかりが生きることではないと気が付き、子どもとその将来を考え、そのために今何を始めるべきか思いを一つ、考えを多岐に巡らすようになるのだ。

 その場にもう第一の騎士スタビーの居場所はない。それもそのはず、かの騎士は世界の終わりを開くための導きであり、こうして人々が自力で魂をよみがえらせては、用をなさないのである。時宜を誤って現れてしまった彼ら騎士は、第一の騎士自らの手で清算されなければならない。そうして、「死」のみが絶えて、第一の騎士の局外に生じた「戦争」と、対照的にその深奥から発した狂気と「飢え」が結局残ってしまった世界だが「ハッピー」の誕生によって、あれらのせいでいくら死んでも、まだまだ新たに生まれてこの50年後、人口は倍増の80億を数えるに至る。
 成長のつけが気候変動や分解も再生もされない廃棄物なんかに化けて、また、世界の再分割過程が財や資源の移送に垣根を作るようになった今、本当に人間の限界が見えてきたようにも思える。第4の封印があらためて解かれる時、再び「死」これは絶滅を意味するものだが、これを阻む者が現れるのか「黙示録四騎士」の無茶な解釈で成り立つこの話だが、酔っ払いの勇気、墓掘り人の捨身、バニーの生まれ変わり、それを促すスイス爺さんらの好意、ヤマ男どもの善意、妙にこころに留まり続けそうな気がする。
otomisan

otomisan