カラン

アッカトーネのカランのレビュー・感想・評価

アッカトーネ(1961年製作の映画)
4.5
☆ロッセリーリかパゾリーニか?

イタリア人監督で認めるのはロッセリーリとパゾリーニだけだ、とベルトルッチは言ったらしい。この無邪気であまり報われない発言はまずもって、周知のようにゴダールとヌーベルバーグ党がロッセリーリのネオレアリズモを敬愛していたのだから、愛するフランス映画界への入党許可を求める、愛の要請としてのウィンクなのであろう。

ところでこの『アッカトーネ』というパゾリーニのデビュー作で、ベルトルッチは制作補助を務めている。ベルトルッチは映画のことを何も分かっていなかった、と自分も同じ出自のパゾリーニは述懐している(パゾリーニはこの映画の時点ではレンズに種類があることすら知らなかった。)そんな人間を助監督に据えたのは、勝手な推測だが、パゾリーニは自作の映画に素人を配するのを好むという個人的な趣向があったのと、パゾリーニがベルトルッチの父(詩人)の世話になった過去があったので、ベルトルッチ本人の父親代わりをしていたということなのであろう。

ベルトルッチの発言が面白いのは、字面ではなく、その裏面なのだ。ロッセリーリの子であり、パゾリーニの父であった一つの名が抑圧されているのだ。つまり、フェデリコ・フェリーニ、という名が抹消されているのである。何かが起こったのは、ロッセリーリとパゾリーニという二つの名の狭間だ。


☆父と子とフェリーニ

フェリーニは、ロッセリーリから身を引き剥がしながら、『青春群像』、『道』、『崖』、『カビリアの夜』を撮った。周知のように、これらは喪失と別れとその不可能性の物語である。死に対する喪の作業(精神分析では、失ったものを弔い、別れの儀式を行い、死を象徴化する行為を「喪の作業」と呼ぶ。)が、静かだが異常な緊迫感とともに頂点に達するのは『甘い生活』La dolce vitaなのであり、さらには、『8.5』の冒頭でその喪の作業が反復されて、ついにはその『8.5』のエンディングで華々しく複数のスパークが発生する!昇華の瞬間だ。さらにその火花が『サテュリコン』以降では、ネオレアリズモからの断絶を刻みながら、新しい世界、愛の饗宴に向かって行くことになるのだろう。喪の作業が昇華に移行するこの芸術的な転向は、恐ろしいくらい魅惑的な旅路であり、できるだけ正確に見定めたいと思っている。しかし、それでは、今、何故パゾリーニの話しをするのか?


☆モラルド・・・マルチェッロ、アッカトーネ、グイド・・・

『アッカトーネ』の脚本を既に完成させていたが、試写の後でフェリーニに企画を却下されると、憤怒の思いでパゾリーニはフェリーニの事務所を飛び出す。それでも、フェリーニの援助がいくらか入ったようなのだが、この『アッカトーネ』という、いかにもネオレアリズモ的な作品を完成させた。公開後に、これまでそうしたようにパゾリーニと車を走らせた時にもフェリーニは黙殺して、『8.5』の概要をパゾリーニに話して聞かせたらしい。このフェリーニによるパゾリーニの黙殺のエピソードにはフェリーニの側の抑圧を邪推したくなる。アッカトーネの自分が死んでいる夢を支配していた沈黙は、果たして、『8.5』の冒頭の空を飛んで落下するグイドの悪夢を覆っていた沈黙と無関係なのか?

話しを巻き戻すが、フェリーニは『青春群像』のラストで青春の町から1人分離していく青年の別れを美しく描いていた。このモラルド役の俳優を当初アッカトーネ役に起用しようと計画していたパゾリーニであったが、結局デモで起用した素人を配置して映画を製作した。フェリーニの出発点をなぞりながら、パゾリーニもまた、フェリーニがおそらくロッセリーリに対してそうであったように分離の線を描いていくのか・・・しかし、その描線は単純に開花する花びらの描線のような遠隔化していく軌跡となるのか?『アポロンの地獄』、生の三部作、『ソドムの市』と進んで行くパゾリーニの歩みは、彼が『カビリアの夜』で脚本にクレジットされ、銘記はないが脚本に絡んだはずの『甘い生活』と、離別後の『8.5』で転向に至るフェリーニの歩みと似てはいないのだろうか。つまり本当の生=多形的な性の領域へと、別々に、そして、同時に、入り込んでいくのではないか。


☆『アッカトーネ』

この映画は素人を集めて撮った映画で、現実に貧困状態の人々は撮影の合間に腹が減れば、物を盗み、口に入れ、彼らが警察に捕まると撮影が延期されるという状況であったらしい。これがリアルだと言いたいのだろう。甘さや理想は完全に排除されて、ろくでなしと社会的な弱者が画面を覆う。

アッカトーネは女を娼婦にして金を巻き上げるジゴロである。金がなくなると昔の女の生家にまで行き、女の家族に害虫のように罵声を浴びても、たかろうとするクズである。それが映画の画面では、イタリアの美術館に飾られているような、聖人か貴族のように、孤高の存在感を煽る伏し目のアッカトーネのバストショットで、砂と血にそまり、よろよろ歩き、野次を浴びせられ、バッハのマタイがかかるのは、ほとんど磔刑のイエスのごとき扱いである。

仕事をしないアッカトーネにランボーの『地獄の季節』を想起させるセリフを言わせているのには、いささか残念な気持ちになった。安易な引用はヌーベルバーグかぶれの連中はオマージュとか呼ぶのかもしれないが、詩人パゾリーニとしては、言葉を選ぶべきだったろう。詩人が詩人の言葉を使ったらただのパクリだし、この映画は『地獄の季節』の強度に達しているわけでもない。まあ、だから引用したくなるのだろうが。

好きな女を別の男に差し出して、自分に耐えられなくなったアッカトーネが、橋から飛び降りると駆けだして、それも叶わないと、川岸に顔を埋めて、泥まみれの砂男のような顔で、こちらを凝視する顔面のアップはなかなかの迫力で、どこかのフランス人監督も、今度は青くペイントしてみようとインスピレーションを受けたかもしれない。

この映画で、仕事をしないで他人を食い物にするクズのアッカトーネは、最初から生きていないし、死なねばならない運命であるのは言うをまたない。しかしパゾリーニはこのクズを聖人の地位に置きたいようだが、そこにはたぶん未来はないのだ。そう、この映画は、フェリーニの初期作品がそうであったように、別れの映画なのではないか。アッカトーネは、死すべき運命で、死ぬ。しかしそれはイエスキリストの死のように聖なることだと、受難と復活なのだとパゾリーニは言っているのではないか。イエスは、死んで、復活した。私たちがこの生を生きる前に、私たちの死があるということなのではないか。出逢う前に、別れがあるということなのか。

二人の映画監督は、初めに、別れの儀式を執り行ったのだろうか。生まれる前にお葬式を挙げるようなものだろうか。しかし、それではお葬式の後の生とは何なのか!人は人に出逢う前に、別れていなければならない、とはどういうパラドックスなのか?

別れと出逢いを二人の映画監督がどう展開していくのか、出逢う以前の別れとは何か、別れた後の出逢いとは何か、着目したい。
カラン

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