ふゆき

ディレクターズ・カット JFK/特別編集版のふゆきのレビュー・感想・評価

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公開ぶりの再鑑賞。
劇映画として非常に巧みで、脚本の構成と、手際の良い割と大胆な編集が光る。ただし、ドラマとしては冗漫な箇所が多く、特に夫婦関係のそれは観ながらうんざりさせられるほどで、ボビー・ケネディ暗殺のニュースを知り、怯えながら身を寄せ合うふたりの場面に至って、ようやく犬も食わない夫婦の軋轢を見せ続けられたかいがあったなとちょっと酷いことを思ったり…w
そんなことを感じる最大の理由は多分、主人公ジムのかなり想像力に富んだ、はっきり言うとほとんどパラノイアじゃないのか、と思わせるキャラクターにある。陰謀論にハマって家族を顧みない彼は、現在的な視点からすると、あーこういう困ったおっさんいるよなあ、という感じ。
ケビン・コスナーはかなり巧みに、バランスよく彼を演じてて、あの実は結構感じ悪いキャラクターに理知的な煌めきを与えている。最後の大演説なんて、淡々としていながら強い意思を感じさせ、観客に強く「この裁判に勝てなければアメリカはダメになる!」と思わせる。
…そしてこれが、この映画の最大の欠陥である、ということに今回改めて気付かされた。

この映画、前半はジョン・ケネディ暗殺当時のトピックを並列に、ドキュメンタリー風にまとめつつ、それを補完するように細切れに再現ドラマが挟み込まれる。一応、証言を元にしたものだが、推測や想像も同じトーンで語られているので、観客には事実と想像の区別がつきにくくなっている。
そして中盤、一度の捜査終了を経てどんどん事件にハマっていく主人公の姿は、陰謀論にハマっていく人が都合よく点と点を結びつけて持論を展開していくあの感じに近く、実際的には決定的な証拠がないので、観ている方も一体何が争点なのかわかりにくい。
しかし確かにどんどん証人となるべき者が殺されているのは確からしく、だが、主人公が生命を脅かされている…と思わせるサスペンス場面は、やっぱり妄想じゃね?とも思え(そういう風に演出してある)、結局ますます事態がどこへ向かっているのかわからなくなってくる。
ここまでの作劇、かなり複雑でぐちゃぐちゃな印象なのだが、逆に言うと、それをひと続きのものとしてまとめ上げた監督の力技には感服するしかない。
ただ、終盤前にドナルド・サザーランド演じるMr.Xが登場(『大統領の陰謀』かよって感じだが)、主人公に陰謀の全体像を提示するに至って、しかもこれまた実は状況証拠を示唆しているにすぎない…のだが、ここでいかにもな再現ドラマがこれでもかと重なり、混迷中の観客はそのわかりやすさに飛びつく、という構成はちょっとどうなの、と思わなくもなかったが。

終盤、消されるのを防ぐ意味もあって、主人公はクレイ・ショウを起訴するわけだが、彼の本当の狙いはあの暗殺で共謀があったことを立証すること。
ここでこの映画一番のトピックである「魔法の弾丸」のことが語られ、最後の演説になだれ込んでいく。
…ただ、実はそのことについては劇中一度も言及されていない。聴衆だけではなく、観客も初耳の驚きの「事実」だ。正直言ってこの映画、この魔法の弾丸のくだりがなければ、劇映画としてはかなり弱かったと思う。
さらに、ここは他とは「事実」のレベルが段違いなので、逆に他の陰謀説との接続が弱い。いみじくも大演説の中で語られる「アメリカの未来のためにショーを有罪にするべきだ」という、割と乱暴な訴えに僕は少し覚めてしまった。
「それはそれ、これはこれなのでは…?」と。

つまり、この映画の最大の欠陥は、裁判の目論見が被告人を有罪にすることそのものではない、ということが「正義」の行使の一環として妥当なものとして語られることだ。
最後、字幕では「無罪」と出るが、原語では当然「Not guilty」、有罪とは認められない(しかも何らかの共謀があったらしいことは認めている)…ものすごく妥当な判決だと思う。

追)
ただこの主人公、同じくケビン・コスナーが演じた『アンタッチャブル』のジム(同じ名前…)のキャラクター造形に引っ張られてる気もするんだよなあ。それはそれでいいんだけど、比較的ハイクラスの白人男性の視座が、当節的には居心地悪いところもあるなと。
それがオリバー・ストーンの考えとイコールとは思わないけど、この映画、ちょっとメタ的な作劇が溢れている箇所がほうぼうにあって、映画製作当時の後出しジャンケン的な知識や知見はあるにせよ、「将来この事件、この裁判がどう語られるか」というあたりはとりもなおさず「この映画がどういう影響を与えるか」という意思を感じさせ、すなわち監督の思想を(あたりまえだが)意識的に伝えるものだと思うんだよなあ。
まあ、オリバー・ストーン自身の後の経歴を見ると、今は変わってるかもしれないけどね…。
ふゆき

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