拘泥

影の列車の拘泥のレビュー・感想・評価

影の列車(1997年製作の映画)
4.8
開始から暫く流れる復元されたというフィルムの裏には映写機の音が鳴り響いている。現代には、中心に来た車の音が鳴り響く。であればフィルムはこの映画のうちに存在する「物」として屹立する。その後編集台の上で眺められ、並べられ、在った世界を恋焦がれられ(なかったんだけどね)、やはり唯物的で、しかしそのモノさこそがこれでもかと愛されて止まぬ当の対象だ。そして色づいても意地でも光と影。しかし色づけば、黒の色さえ分かるその美しさ。そして素朴な、鮮やかな顔達。つまり、この男、映画好き過ぎだろ!!!
ラ・シオタ駅からスクリーンを飛び出そうとした100年後、かっ飛び映画バカホセ・ルイス・ゲリンは、アレとは垂直の直交座標に、画面に水平な非常に美しきリュミリュミとした誰かの汽車が「あったことにしてしまった」。ある種の「これ、俺が作ったことにならねえかな」を、映画というものが目的でありかつ手段であることを用いて弁証法的に解決するファッキンアメイジング鮮やかな時空超越を目と耳ほじくって目撃せよ。
そして開始から原初に回帰するのかと思えば、実はリュミリュミが推し量る余地もなかったフォルマリズムの徹底である。その経年の跡までつけてなされることは存在論的に「死後なお死者として在らせられる」ことに見え、我が師匠が一人カミュが『異邦人』において拒絶した母の死者としての存在と真っ向から対立するのだが、言葉以上のフィルムなるものに依ったが故に、亡霊は全き亡霊然とならず、フィルムの再生とは、死者を死者として存在させることではなく、幾度となくまさしく「再生」させることなのである。私が『ザカリーに捧ぐ』でたまらなく好きなのは、あの「もう一度」のシーンなのである。「もう一度」「もう一度」再生の度に何度となく、そこに何かが生きると、何れか在ると信じられる、そういうぶっ飛び映画バカホセ・ルイス・ゲリンのタマスィーの拍動をここに感じLOVE。1929年ってなんか関連するような特筆する映画あったか?って調べたら『カメラを持った男』があるじゃねえ〜〜か!!!なんか同梱の冊子にもやっぱ関連を上げられてたし、はよ観るしかねえね〜ってことで観た。終わり。
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