レインウォッチャー

囚われの女のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

囚われの女(1968年製作の映画)
2.5
現代美術家の妻ジョゼが、ギャラリーの支配人スタンの耽溺する密かな倒錯の世界へと惹かれていく…

という粗筋から思い出すのは、そう『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』。人の欲は昔も今も変わらぬものよのう…などと感慨に浸りつつ、同作とはまた違ったベクトルで瓦解する顛末がおもしろい。鍵となるのはやはり女のキャラ。

男のアブノーマルな性嗜好に対して、『フィフティ~』のヒロイン・アナは「ゴネてゴネてゴネ続ける」戦法をとったわけだけれど、今作のジョゼはといえば「中途半端にやる気だけはある」という、実はアナより厄介かもしれない女である。『DEATH NOTE』のミサみたいな感じ(駄目だこいつ早く何とかしないと)だ。

というかこういった勝手な性格は、このへんの時代のフランス映画に出てくるヒロインあるあるな気もする。犬系彼女ならぬヌーベルバーグ系彼女だ。イエベ?ブルべ?ヌベバ。

時代といえば、今作の裏にはポップアートの流行という背景も絡んでいる。アンディ・ウォーホルなんかに代表されるポップアートが先進的だったのは、芸術を「コピーできるもの」に変えてしまったことだ。

スタンは、ギャラリーで扱う作品たちについて「スーパーマーケットのように売り出す」「複製の価値も同等」といった発言をしていて、まさにこのコピーと消費の精神を体現しているといえる。
彼はジョゼの夫の作品もポスターにして生産ラインに乗せてしまうし、冒頭では様々な女性を模した像やオブジェの類とバービー人形を同等のように扱っている。

しかし、そんなスタンもある種のダブスタのようなものを抱えているようだ。彼はセックスの代用としてカメラ(写真)を用いる人物。しかし、旅行先でジョゼが他人から撮られたスナップをこっそり持っていたことがわかったとき、急激に機嫌を損ねてしまう。
いわば不倫現場の証拠写真を後生大事に持ってたことに怒った、ともとれるけれど、その裏には他の者に撮らせる=複製されることに耐えられなかったのかも。大量生産を謳う彼こそ、実は誰より「一点もの」に憧れてたのか、とか考えながら観ていた。

まあとはいえ、終始ジョゼの情緒不安定ムーブに辟易するのと(正確に言うとその機微に説得力がない)、そのくせまともに脱がなかったりするのにヘイトが募る時間のほうが多かった気はする。
ギャラリーにゴテゴテと並べられたアート作品(どれも形が流動的に動いたり、色が変わったりする類のもの)が見せる催眠迷宮的な世界や、終盤の数分間に及ぶサイケデリック悪夢シーンがやはりエピックな映像として見どころだろう。

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シャンタル・アケルマンのと、どっちが「じゃないほう」映画なのかしら。