jonajona

もののけ姫のjonajonaのレビュー・感想・評価

もののけ姫(1997年製作の映画)
5.0
映画館ジブリなんてのは本当にもう風立ちぬ以来なので何年ぶりか…

子供の頃にVHSで見てたブラウン管の『もののけ姫』を映画館で見れる日が来ようとは…。
コロナは辛いけどこれだけは救い。

ジブリの中で1番好きな本作ですが、今改めて見ると何が凄いか分からないくらい素晴らしい。映像、音、描写、台詞、声すべて最高峰なのですが一度脚本というかストーリーと各々のキャラクター性に立ち返ってみると尚更凄さが際立つ。
今回はストーリーラインとキャラの描き方について自分なりの考察もどきをここでぷりんとぶちまけようと思う。

○言葉(台詞)に各々全く無駄がない。よくよく聞くと先の展開に必要なワードか、関係性の構築など新たに看破した現状を理解する為に必要なワードしか出てこない考えつくされた最小限の会話劇。
さらに、その『なんでこれほど短い台詞の応酬で名言連発できるのか?』とか考えてみたところ、自分なりに一応の答えが出まして…それは

○主要キャラ同士(アシタカ、サン・モロ、エボシ様、ジコ坊、乙事主、シシ神)の相互の背景に控える文化的状況が各々完全に独立しており異なっていて、その為に実は意外と会話のキャッチボールがうまく成立してない。
この、会話がそれぞれ言いたい事を露骨に主張するというスタイルだからこそ言葉が芯を食ってて名言になってると。

『だまれ小僧…!』byモロに象徴されるようにあんまり他人の言葉を聞き入れる余裕のある人間(獣も含め)がいないで、皆んな生きることに必死。物語上彼らのディスコミュニケーションは、獅子神に関する各人の考察がまるで違った様相を見せることに顕著になる。エボシ様は人が発展する中で自然との対話は不能だと考えて(最早腹を括ってる潔さまである)木々を切り倒し獣を駆逐していく。サンやモロの山犬族はエボシへの復讐を誓うが種として存命する道を模索するが、対して乙事主は獣としての矜持のため玉砕する勢いで戦闘を望む。獣のこの二者の間でも『シシ神』のあり様について意見が分かれている。

なんとなく、このディスコミュニケーションが最大値に触れたところで『タタリ神』になる、という呪いの状態に突入する気がした。
乙事主の精神性を利用してイノシシの毛皮を被り『人でも獣でもないもの』となった毒矢集団がにじり寄る姿は確かに非道が過ぎる。相互理解の断絶がゆえのフラストレーションのその結果、乙事主はタタリ神になってしまう。ディスコミュニケーションの果てがタタリ神だとすると、シシ神を殺した際に体から溢れ出たゼリーのやつ(デイダラボッチ)がタタリ神に似てるのも納得な感じ。

アシタカとサンの間に生まれる愛情がこれほど美しいのは、そうしたコミュニケーションの断絶がこの物語のテーマになってることの逆説的効果だろう。互いが互いに居場所を奪い合い殺し合う世界の中で『そなたは美しい』の一言がなんと綺麗な事か。
アシタカは曇りなき眼で世界の有り様を見定めるため、旅に出る。その宣言通り様々な思想背景をもった人物たちに出会し、そして恋をして村の外の他者との繋がりを求める。
素晴らしい脚本、物語構成。バンザイ🙌

○もう単純にサンが口移しで肉食べさせるシーンが好き過ぎる。アレ憧れたなぁ…
あと、アシタカがサン助ける為に腹に風穴開けて抱えてたたら村を出るシーン何回見ても泣ける。カッコ良すぎる。

○木霊ってなんで人の形してるんだろーなー、と考えてみたんですが人間が昔自然と共存してた時の残滓なんじゃないかという結論を勝手に出しました。ハイ。
そういうとシシ神も中身人ですよね。
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