Ricola

日本の悲劇のRicolaのレビュー・感想・評価

日本の悲劇(1953年製作の映画)
3.9
記録映画的な、現実そのもののショッキングな羅列から始まるこの作品。
タイトルの日本の悲劇というのが、まさにこの物語を端的に名付けたものとしてしっくりくる。

戦後の混乱によって起こる社会的事件や人々の荒んだ心が引き起こす事件が、当時の映像や新聞記事になぞらえて示される。
一つ一つの事件の被害者とこの作品に登場する人物たちのような、一般市民全体が戦争の犠牲者なのだということがよくわかる。


戦時中もしくは戦後直後の記憶のフラッシュバックが、音が伴わずに插入される。それか春子(望月優子)や歌子(桂木洋子)の声と彼女の出す音、また彼女の会話の相手の声だけは聞こえるといった状態である。
そこでの音や声が、回想の中もしくは現在でのシーンにまたがって聞こえる、サウンドブリッジという演出がとられる。
現在のある出来事に直面すると、過去の暗い悲しい出来事を思い起こしてフラッシュバックが起こるのだ。

春子は苦労して息子と娘を育て上げ、二人とも立派になった。
彼女が子どもたちによく言った言葉が、「偉くなるんだよ」である。
私のように苦労してほしくないから、という思いはわかるのだが、子どもたちにはそのように伝わらない。
「母さんは僕達とは別の世界に生きているんだ」と言われてしまう。
お母さんの苦労のおかげで今まで生きてこれたことは確かだけど、子供を偉くすることは自分のためなんでしょう?と。
それは悲しいことにたしかに的を得ているのだ。

ロングショット、もしくはミディアムショットで観察者の視点を突き通す演出に冷徹さを感じる。
例えばそれは、墓場でのシーンにおいて顕著に示されている。
清一が母である春子に愛想を完全につかし、彼女から背を向けて離れていく。
そんな彼を春子は追いかけ抱きつくのだが、春子の夫の墓の前にいたロングショットから、その左脇の竹などが生い茂るところへとカメラが回り込んで、彼らを少し近い距離から映す。
彼らが動くのにつれてカメラも動き、清一が去ってしまったあとには、また夫の墓の前へとカメラは戻ってくるのだ。
このカメラワークは、二人の「追いかける/追いかけられる」の構図を追うというより、春子の惨めさをまじまじと映し出しているのだろう。

それとは対照的な、歌子のクロースショットも印象的だった。
彼女が通う英語塾に向かう前後で、一回ずつクロースショットが見られる。
カメラをじっと見つめ決意をしたような表情を見せて、塾に行く。
塾を出た後に彼女は意味深な笑みを浮かべるが、過去の出来事が想起されるとその表情を変える。
その変化を真正面からとらえるのだ。

春子だけでなく歌子も清一も、板前の佐藤も、赤沢も赤沢の妻子も、歌子の下宿しているお店の夫婦も…皆、戦争中に犠牲とならなかっただけで、生きながら戦争の犠牲者であり続ける。
戦後の混乱や不景気は市民の誰が悪いなどではないのだけど、何かにすがらないと生きていけないほど燃え尽きる者もいたのだ。
Ricola

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