カラン

ボディ・スナッチャー/恐怖の街のカランのレビュー・感想・評価

4.0
☆赤狩り批判、、、なのか?

50年代というのは、冷戦の対立が激化して世界の各地で米ソの代理戦争が本格化した時代。アメリカの謀略もむなしく中国と北朝鮮がソ連とお近づきになり、アメリカとしては南米だけはそうさせまいとキューバだのグアテマラだのにスパイをいっぱい送りつけて傀儡政権を樹立して、実質的な植民地にして、南米を操ってやろうと企んでいたのであった。

フロイトの天才的な直感によると、SとMは容易に反転する。他人の家を覗いているやつが、他人に自分のほうこそ覗かれているのじゃないかと考え始めるのは、ごく自然なことなのだ。操ろうと目論む者がもっとも恐れるのは操られる者になることだ。アメリカは少なくともこの時代には覗く者であり、他国を操ろうとする者だった。死に物狂いで他国の窃視をするアメリカが、赤狩りと呼ばれる仕方で自国内を監視しようとするのは、フロイト的に自然である。

赤狩りというのは、アメリカ国内の共産主義者の取締りのことを指すのだが、政治家や軍人だけでなく、作家や映画人まで糾弾され、職をなくし、追放された。チャプリンが20年ほどアメリカを国外追放になったのはこれである。某デミル、某ディズニー、などは熱心な密告者となった。

この映画はどういう立場なのだろうか?

私の見立てだが、この映画は赤狩り批判ではない。たしかに、赤狩りによって無実の人まで当局による無断の家宅捜索の対象となり、糾弾、弾劾されたのが赤狩りならば、町の全住人が自分たちを探し回っており、眠れずに闇に隠れて逃亡を繰り返し、自分を失い操り人形になるのを怯えるというこの映画は、赤狩りの脅威を表現していると考えられなくもない。

しかしである。この映画の侵略者は山の裏の畑でプランテーションのような大規模集約農業をこっそりやって、何かを栽培している。この奇妙な集団労働がこっそり行われている山の裏手の農園って、どこのことだ?カルフォルニア州には思えないが。また、そのように栽培されている何かは、大きな椰子の葉のようなもので覆われた形状のもので、巨大な鞘の中から泡ぶくがでてきて、宿主のコピーが繭の中に包まれている。宿主が睡眠に入ったら宿主を乗っ取る。この巨大な笹団子状の鞘は、いかにもヨーロッパや北米ではなく、南米の作物を想起させるだろう。しかるに、侵略者の由来は南米とならないか?キューバが共産主義化する脅威、グアテマラで実権を失う悪夢。つまるところ、南からアメリカに侵入してくる共産主義の非人間性とアメリカ人から見た奇怪さこそを、感情のない人間たちの集団が育てて運び込んでくる鞘が表象しているものなのではないだろうか。

その場合は、この映画はコミュニズムへの不安をこそ体現しており、赤狩り批判の牙となるどころか、赤狩りと同調することになりはしないだろうか。


☆ハイスピードホラー

小津安二郎が30回くらいはエスタブリッシングショットを挿入するところで、本作はゼロ。空間を映しても、すぐに人物がインしてくる。人物がアウトする際にも、タル・ベーラがロングテイクで無人ショットを1分回し続けるならば、1秒くらい。例えば、ビリヤード台に不可解な死体があったはず、、、しかし、死体が消えている。顔を見合わせる人物たちが別の場所の謎死体がどうなっているか部屋を出ていく時、アウトしていく背中を捉えるカメラはビリヤード台の上である。このようなケースで謎死体の目線にカメラを据えるのは不気味な余韻を作るには定番なのだろう。しかし、部屋が無人になるや否やカットになるので、死体目線ショットであることをほとんど印象づけようとはしないのである。さらに、シーンががんがん繋がっていき、余計なことも言わないし、伏線の張り方も最低限。ケヴィン・マッカーシーとダナ・ウィンターの美男美女の闇キスも結構かっこいいのだが、あさっりとカットが入る。チュッ、はいっ、カット。闇キス、わざわざ見返しちゃった。(^^)


☆four times

これまで1956、1978、1993、そして2007と4度映画化されてきたジャック・フィニーの小説『盗まれた町』(1955)の映画版、第1作が本作。全部、観てみよう。どうパラフレーズしてくれるのか、実に楽しみだ。

   
☆アメリカの夜

トリュフォーの『アメリカの夜』という映画があるが、元は夜間の光量の乏しさに感度が悪い機材であると露光不足になってしまうのを防ぐために、日中に撮影するが夜に見えるようにフィルターやポスプロ時の加工をする撮影方法である。『ボディ・スナッチャー』では熱帯夜のような暑さと異様さが夜間の描写としてスクリーンに映る。とてもクリアーでありながら、熱に浮かされた類例がないほどの夜躁が捉えられている。『カビリアの夜』(1957)のレベルに匹敵するほどの狂騒ぶり。一瞬、アメリカの夜(day for night)なのかと思ったが、それは勘違いのようだ。この映画でドン・シーゲルは夜間の描写には夜間の撮影(night for night)を望んだとか。
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