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ウィル・ペニーのotomisanのレビュー・感想・評価

ウィル・ペニー(1967年製作の映画)
4.2
 自分の名前を綴ってみようなどと思いもしなかった?まあ、年に何度かの給金の受け取りだけならバッテンでも十分か。しかし、そんなタカを括って、まさに我が身ひとつを生かして生きて来て半世紀、迎える老境の丸裸に身寄りの温かみが意外にも沁み入るのらしい。
 広い世界と思って生きて来ても、世間の移り変わる足取りは早くて、とんでもない僻地にまで敷かれた線路がシカゴにも東部にも繋がり牛たちを運び去ってしまう。牛追い唄を歌いながら重ねた労苦もそれを共にした仲間もじきに無かったも同然になりそうだ。でもだからといって今更どう生きられる?
 カウボーイの腕を磨いて認められても、その日暮らしの流れ者。身に染み着いたギブアンドテイクと薄情けの性が通りすがりの女と子どもに揺るがされる厳冬の牧番屋。薄情とて追っ払うのが仕事。とはいえ命の恩人には違いないし、いや、決してそれだけでもない?らしい。
 荒事に慣れ、命懸の仕事を仲間に頼り頼られして、それだけで生きて来て、他人の命のあっけなさに我が身のはかなさも同様と思い知っていれば、この年になって金で買えない女、情が引き寄せ合う女だの、わけも分からず慕われるだのとはいささかくすぐったく身に余ってしまう。だから働く事がありがたい。ベストマッチもナイスフォローもそれならよく分かる。なるほど男同士でも相手が女でも子どもでも働く者同士なら気兼ねがない。これが家業をこなすということだろうか。そのうえに余った時間が家族を夫婦を親子を実感させ解明してくれるものなら悪くはないのじゃないか?
 そうと勝手に思っても、悪い絡みで関わった説教師を仕留め、もとの流れもん連中と再会し、雇い主まで出馬とあってはうその一家もご破算。オレゴンで待つ亭主とは2年掛かった垣根をウィルとは二日で越えたキャサリンがフラットアイアンで春を待つという。死神も扱いかねる臭い相棒と地回り仕事で過ごす中、どんな思いが巡るだろう。悲恋好きには耐え難かろうが悩んで乗り越えてゆくのは彼ら自身の事。永遠に別れ去る手近な悲劇よりも、添い遂げ見知らぬ試練に分け入る物語の方が西部には似合う気がする。
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