足拭き猫

裸体の足拭き猫のレビュー・感想・評価

裸体(1962年製作の映画)
4.1
冒頭で口紅を塗るシーンと最後のシーンが全く意味合いが違うことに象徴される、欲におぼれていく一人の女性の変遷。

船橋の貧しい漁村に住んでいる左喜子は東京のオフィスに通い、事務所のお金を盗んだという罪を掛けられたことがきっかけで社長と愛人関係になる。実家は漁師町の銭湯で幼馴染の男などに言い寄られるが、なんとかこの貧しい暮らしから抜け出したいと全く相手にしない。女性もうらやむ豊満な肉体を武器にして金持ちの男を手玉に取っていくがだんだんと虚無に侵されていく。

田舎で先頭を営む父親と母親が前代の人だとすれば、左喜子はそれを否定する新しい昭和の日本人。東京湾で向かい合う、今にも崩れそうな小屋が並ぶ貧しい船橋と西銀座デパートや店のショーウインドウが並ぶ煌びやかな東京が対比される。当時の船橋は川に多数の船が浮かび漁をして生活を営んでいた。

これから高度経済成長を迎えようとする日本の60年代前半の物語であるが、金欲と物質欲におぼれていく人間の普遍的な姿を追う。また、無垢でたくましい左喜子が「エネルギー」という言葉の魔力を知ったその後の顛末は、これから迎える時代とその先の未来をも予見しているよう。

猥雑な繁華街、行きかう男女をすり抜けていくさきこを奥から手前に追いかけていくショットと人々の動きが見事。口にあてる花がバラではなく真紅のツヤッツヤのチューリップという鮮烈なイメージ、階段を登って行く時の格子越しのシーンの横移動が渋い。浦辺粂子の老いた裸の背中と瑳峨三智子の下着から透けて見える肉体はどっちもエロい。

左喜子のことを理解しようとする浪速千栄子が優しくて唯一ほっとする時間である。浪花千栄子は50代だろうか、かなりな美人で言われているような大阪のお母さんというイメージと違っていた。左喜子は狂っていくが、成沢昌茂が描く女性たちは環境や運命にただ翻弄されるだけでなく原始的な強さを持っていると感じた。

他にも若い佐々木功や長門裕之が出てくるなどキャストが豪華。制作プロダクションのにんじんくらぶは、映画会社の枠を超えて俳優を採用した作品を作ろうと、岸恵子らによって設立されたプロダクションとのこと。