阿房門王仁太郎

ミュンヘンの阿房門王仁太郎のレビュー・感想・評価

ミュンヘン(2005年製作の映画)
4.0
 重い映画である。それは必ずしもユダヤ人の離散以降の報復の連鎖という内容に限った話ではない、殺しの手間の話でもある。即ち名にし負うイスラエルのモサドの暗殺部隊だてらに情報収集、移動、そして実行がもたもたしていてアクションが重いという意味でもある(これは散々言い尽くされた事だ)。そして何より死体が重い、人間容易に死ぬ物でも無いから作為的にそれを起こすには多量の銃弾や爆薬や計画やコネが必要で実はそれがモタモタした感覚を呼び覚ましている。
 そしてこの報復作戦がモタモタしているのは、モサドが飽くまで秘密裏にミュンヘンオリンピックでのテロの報復としているからだ。大っぴらに動くと戦争になる、だから飽くまで秘密裏に消さないといけない。
 詰まり、この映画に出てくる5人のヒットマンはいわば捨て石であり、政府高官は彼等の身柄を保障したりなどしない。飽くまで彼らはイスラエルという国の威信(それが国家の安寧に繋がる)の為に「国家という巨大なメカニズムの上にひっかかったクズ」(『アドルフに告ぐ』)の如く「安い命」を懸けて黒い9月の指導者・関係者幹部たちを殺していく。
 繰り返すが、死体が重い映画である。イスラエルのオリンピック選手にパレスチナゲリラに、亡くなっていくモサドのメンバー皆悉く質量を持っている。それに引き換えイスラエル高官は幾分軽薄で、重い者が軽い者に突き動かされる作劇の倒錯があるように思われる。そしてその倒錯した世界を成り立たせるディアスポラ、イスラエル建国以来のユダヤ人、パレスチナ人の歴史的な文脈を感じ入り、それが却って彼等を傷つける更なる倒錯に困惑する。
「復讐は何も生まない」というのはよく言われる事だがこの映画では寧ろ膨大な死体と、あらゆる不信と報復に怯える壮年を産み出した。そしてこの死体の山はまたさらに夥しい死体の山を産み出すのだ。これが説教ではなく悲痛な呻きとなっている点においてこの作品を反イスラエル的な作品と画一的に捉える事が適切だとは私は思えない。
阿房門王仁太郎

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