むっしゅたいやき

サタンの書の数ページのむっしゅたいやきのレビュー・感想・評価

サタンの書の数ページ(1919年製作の映画)
4.3
カール・Th・ドライヤー。
神、サタン、女性。

ドライヤーの長編第二作。
グリフィスの名作、『イントレランス』にも似た、四つの時代の独立したエピソードで構成される作品である。
『イントレランス』を特徴付ける時代を超えたクロスカッティングは見られず、各エピソードが独立している点、また時代も風俗も厳格なドライヤーらしく順に並んでいる点から、非常に見易く理解の為易い劇映画である。

本作をドライヤー作品の中でも特異な位置へと押し上げている特徴の一つに、“サタンの役割”があろう。
通常サタンと言えば、絶対悪、若しくは神に抗する者として画かれるが、本作に於いて彼は神と対等の立場には無く、永遠の従者であり、下僕である。
作中彼が人間を誘惑し、また桎梏を課すのも神の呪いが故であり、其れに負ける人々を哀しみの籠った眼差しで眺め、時には面罵する者として画かれている。
この為、劇全体に底流する「人間の弱さ」への諦観に加え、「人間の哀しさ」、他のドライヤー作品に類を見ない「温もり」が付与されている様に思われた。

特徴の第二に、女性の描き方がある。
本作での女性の立ち位置は、終始徹底して「庇護される者」であり、サタンの誘惑に負けた者の「被害者」である。
但し第三話・第四話に見られる様に、サタンの誘惑にも負けず抗し切り、誘惑に乗った者を叱責するのも女性であり、単純な「弱き者」としては描かれていない。
此処からは監督自身のフェミニズムと母性への憧憬が見て取れ、個人的には「ドライヤー君、まだまだ若いな…」と思わせられた点である。

第三の特徴は、正義の描き方の“揺らぎ”である。
本作では各話で主人公が社会正義の名の元、抑圧を受け、サタンより選択を提示される。
経緯の程度差はあれ第一話から三話迄は、己の欲望を具現化させようとした者が凋落する自業自得の物語であるが、第四話のみが趣を異にする。
此処では、「愛国心」と、「家族愛」若しくは「自己愛」が秤に載せられる。
ギロチンの初期名が「Bois de Justice(正義の柱)」であった様に、或る人の「正義」は他人にとっての「抑圧」に他ならない。
第四話では、この「愛国心」が正解であった様に画かれており、少々イデオロギーが臭く感じられた。
ブックレットを読むに、この第四話のみが原作とは別に書かれた(当時の)現代劇と知り、初めて納得した次第である。

本作は三時間を超える作品ながら、緩急も有り、またコミカルなシーンも有りで、飽きさせない。
秋の夜長に嗜みたい古典劇である。
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