レインウォッチャー

鏡の中にある如くのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

鏡の中にある如く(1961年製作の映画)
4.0
信仰と血縁、呪いのエスプレッソダブル。

壮年の作家ダビッドが、家族を連れ海辺の別荘を訪れる。息子のミーヌスとその姉カーリン、その夫マーチン。家族の時間を和やかに過ごすが、カーリンは精神病院を退院した直後で不安定。再発を心配する夫、父との距離感に悩む子供たち。

家族という力場の水面下に確かに巣食う、しかし埋められない孤独と、幻想にすがることの空虚さを美しく張り詰めた映像で語る。

ベルイマンと、厳格で家庭では支配的な牧師であったという父親との関係…などを情報として仕入れてしまうと、安易に結びつけて満足してしまう気がして痛し痒しなのだが、それだけ今作の父親=ダビッドと子供たちの関係はダイレクト。
特にナイーヴな弟ミーヌスとダビッドとの会話には、父に対する怒りや後悔や…が入り混じった愛憎が満ちている。一方でダビッドの孤独を映す、部屋を覗き見るような視点、部屋自体が静かにそこに佇む様子…はどこか小津安二郎とも通ずるようで、単に攻撃的なだけではない憐憫の情を感じるものだ。

かつ、ここにおける父親の職業は牧師ではなく作家ということなので、映画監督であるベルイマン自身との結びつきもあるのでは、と想起させるところ。そこには、親と同じ過ちを自らも繰り返してしまうのではないか?という不安を見ることができる。
それは、劇中で不在である元妻(子供たちの母)ともリンクしている。ほんのひとことだが、姉と同じ病気だった、と言及されるのだ。ここにも、繰り返しの恐怖がこだましている。

子は、親の複写であるという変え難い運命と、親に対する反発心の中で成長していくものだ。
家族や現実と向き合うことができず(きっと元妻の顛末も関係しているのだろう)、創作という自らの殻の中に逃げていた父親は、最後に反省の色を見せ「愛」というシンプルな解答に回帰するのだけれど、これはベルイマンの父に対する「どうだ見たか、聞いたか」という糾弾と同時に、「同じようにはなるまい」という自戒の念の表れなのかもしれない。

また、カーリンの病が再発、悪化する過程においても、徹底した現実主義が垣間見える。

カーリンが幻覚の中で神なる存在に救いを求める姿は痛ましく、同時にはっきりホラーのようなテイストで描かれる。彼女にとっておそらく教会のような場所として機能する荒れた部屋は、『リング』のビデオの中に映ってもおかしくない禍々しさがあり、今にもこの世の摂理を超えた何かが起こりそうな空気を湛えている。

しかし、今作ではカーリンが見聞きする幻覚を彼女視点で映像化する…とかではなく、あくまで外から見たカーリンの独り芝居として見せ切る。ここに感じられる一種の冷たさ・ドライさは、映画の中に超常的な何かを感じ取ろうと(ある意味で期待)したわたしたちに「現実を見やがれコノヤロー」と言っているようでもある。

カーリンの苛まれる幻覚を構成するイメージやそれに裏切られた絶望、弟とあるきっかけで一線を超えてしまったこと(※1)への罪悪感なども、源を辿ればその「宗教観」によって培われたものと言うこともできる。
神なんて信じるからこんなことになるんじゃい、とまで汲み取るのはやり過ぎかもしれないけれど、まずはいったんの結論として捻り出した「愛」がその場凌ぎのものでなかったことを願いたい。

-----

※1:二人が寄り添う難破船の内部、水が澱のように溜まった空間など美しくも不気味で今作のハイライトのひとつだけれど、ここは胎内の象徴に思える。姉弟は、性的な結びつきよりは自らのルーツに帰って互いを補完しあうことに安息を求めたのかもしれない。やはり、不在の母の存在が大きく彼らの不安、寄るべなさの背景にあるのだと思う。
カーリンは常に手足を丸め込むように眠るが、これは胎児を想起させるもので、上のイメージを補強している…という妄想。