茶一郎

鏡の中にある如くの茶一郎のレビュー・感想・評価

鏡の中にある如く(1961年製作の映画)
4.7
 エンパイア誌による「史上最高の3部作33」ではモノクロ映画として唯一ランクインしていた映画史上、最も重要な三部作の一つ、ベルイマンの「神の沈黙三部作」。その一作目であるこの『鏡の中にある如く』は飛び抜けて美しく、そして怖ろしい。何より数珠つなぎのようにテーマとモチーフが連続しているベルイマン作品・ベルイマンユニバースを紐解く一作としても肝要な作品です。 

 つまるところ「神の沈黙三部作」とは、敬虔なキリスト教の神父であるベルイマンの父親に対するベルイマン自身のトラウマを、映画を通じて治療していくという「だから俺はオヤジが嫌いなんだ三部作」だと言い切ってしまいます。
 三部作の前の作品にあたる『第七の封印』と『処女の泉』においても、キリスト教(神)を信じたあまり酷い目にあった登場人物を描き、神(ベルイマン作品においては「神」イコール)オヤジへの強い批判を感じさせましたが、「神の沈黙三部作」ではより父親・家族単位に特化した物語設定を用意し、鋭く「神の不在」と名ばかりの「オヤジのダメさ」を嘆いていきます。

 本作『鏡の中にある如く』の物語もやはり一つの「家族」の物語で、孤島で暮らす作家の父、思春期の息子、娘であり精神病を抱えているカリーン、そのカリーンの夫である医師、4人の生活、そこから生じる心理のすれ違いを映していくだけの極限までに無駄が排除されたものです。
 すでに冒頭から家族に対する愛を失っており、家族から嫌味を言われる始末の「神」についての物書きである父親(ベルイマン作品においてダメ宗教野郎を演じるのは、いつもグンナール・ビョルンストランド)はベルイマンのオヤジそのものであり、そのオヤジから抑圧的な仕打ちを受けている娘は、ベルイマンの父親が虐待をしていたというベルイマンの母親の名前と同じカリーン。『鏡の中にある如く』は美しい大自然を背景にした、オヤジのダメっぷりとカリーンの精神崩壊、そこから家族が少しずつ崩壊していく地獄の様を見せつけられるのです。
 
 『野いちご』同様、次第にオヤジの悪い部分と、ベルイマン自身の映画作家としての悪い部分が融合して本作の父親が出来上がっているという点が何とも皮肉で興味深い点ですが、結果として生じたカリーンの崩壊はオヤジのせいというより、カリーンが「神」を信じていたばかりに起きてしまったものと言えます。
 カリーンが神を待ちわびて、実際に目にしたものは「神」という名の「悪魔」であり、その悪魔は蜘蛛の姿をしていました。このシーンが前後のベルイマン作品における「神」の正体を明かし、「蜘蛛」のイメージは後の『仮面/ペルソナ』はおろか、他監督の作品である『複製された男』においても「神的な権力のある人物」の喩えとして登場しています。
 
 広大な自然に突如、現れる無機物・ヘリコプターの怖さと美しさ。神が人を助けないと分かった父親は「愛」は「神」のようなものだと息子に言い聞かせ、悲劇の中で息子と父親が分かり合い幕を閉じます。
 ベルイマンユニバースにおいて「神」は「悪魔」であり、「愛」である。その事を決定付けた一本として本作『鏡の中にある如く』は重要作であり、私にとってのベルイマンは「愛」の尊さを教えてくれる偉大な映画作家です。
茶一郎

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