河

たぶん悪魔がの河のレビュー・感想・評価

たぶん悪魔が(1977年製作の映画)
5.0
近代化による自然や人間への殺戮、その絶望のようなものを内在化したような登場人物達がいて、それによってより生存本能が高まり課題解決に向けて行動する男に対して、逆に無気力に向かう、何にもコミットメントできず生きることも死ぬこともできない鬱的な状態に陥っていく男が対比される。さらにその無気力の先の存在として、生死を無効化した生きながらに死んでるような、金や食べ物に対して機械的に動いているような奴隷的な男がいる。その鬱的な男を主人公として、活動的である種健康的な男との対比から、段々とその鬱的ででも生死への意識はある主人公と意思のようなものがなにもないただ身体のみで社会に従属してるような男との対比に移っていく。その3人の移行がセリフでも示されるテレビ、映画、麻薬によって加速される精神崩壊の過程に対応するようになっている。
精神病院でその何にもコミットメントできない状態を症状として直された主人公は死ぬことができるようになり、その男を古代ローマで鬱の治療として使われていた奴隷として自分を殺すことを依頼する。
『湖のランスロ』に引き続き音の間、響かせ方や抜き差しがすさまじく、飛び降りるところの音などは明らかに編集されてるように聞こえた。映ってるものの音しかなっていないし映像に対して違和感もないのに何かが間にあるような感じ。例外的な音すら最小限だった『湖のランスロ』と比べて、エレベーター、サイレン、原爆の音、オルガンアザラシの鳴き声など、そのテクノロジー、制度とその犠牲になった自然、宗教や人間を象徴するような何か非現実的な音の響きが頻繁に出てくる。そこにさらに、乗客の会話がつながっていくバスのシーンのモンタージュ、隙間から見えるテレビなど、現実から非現実にふと浮遊するようなシークエンス、ショットが重ね合わされる。
主人公は現実から遊離しつつあると同時に、ロマン主義的で、生と死の間の何か美しい瞬間、霊感のように何かを思いつく瞬間を求めてもいる感覚があり、この映像や音がその遊離と一致するとともに何か美しい瞬間につながっていくような予感にもなっている。
ただ、死を前にして得られたかもしれないその主人公の霊感のようなものは、奴隷のような存在によって、日常的な万引きの延長のような作業的な無気力さによってあっけなく飲み込まれて終わる。
『スリ』や『抵抗』でも作業、犯罪をする手つきが重要なモチーフで出てきていたけど、『ラルジャン』と同じく万引きなどの手続き的な手の動きが、人間性を剥奪するようなものでありその数歩先に殺人や破壊があるようなものとして出てくる。そう思うと『田舎司祭の日記』でも字を書く手が重要なモチーフになるし、よく考えたら『湖のランスロ』などは足もある種記号的に何かのモチーフとして使っている映画な気がしてきた。一部品として人間や馬などの身体を撮るのがめちゃくちゃにうまい監督だと思ってたけど、その身体の部分部分の扱い方、それに象徴させられているものを意識しながら見返したらまた見え方も変わってきそうだとなんとなく思った。
『湖のランスロ』での最小限に編集され尽くしたような映像と音の響きと間に人生でも他にないけらい感動したけど、この映画は最小限じゃない代わりに何か霊感のようなものがあってより最高だった。
河