YasujiOshiba

鉄人長官のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

鉄人長官(1977年製作の映画)
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シチリア祭り(16)

積読のモリコーネDVDより。ジュリアーノ・ジェンマとクラウディア・カルディナーレの主演で音楽はモリコーネなのだけど日本未公開。モリコーネのボックスの一枚として日本版がみられるのは実にうれしい。

「鉄人長官」は原題 Il perfetto di ferro に忠実なタイトル。原作はアッリーゴ・ペタッコの『Il prefetto di ferro. L'uomo di Mussolini che mise in ginocchio la mafia(鉄の知事。マフィアを跪かせたムッソリーニの男)』(1975年)で、ペタッコは映画の脚本にも参加している。

ジェンマが演じるチェーザレ・モーリ(1871-1942)は実在の人物。1925年にパレルモ知事に任命されてから、匪賊やマフィアを徹底的に摘発し、それこそ「鉄の知事」として恐れられる。その右腕として活躍するフランチェスコ・スパノー(1878-1949)はステファノ・サッタ・フローレスが好演。『あんなに愛しあったのに』で演じたニコーラが印象的なんだけど、残念ながら48歳の若さで亡くなっている。

監督のパスクワーレ・スクイティエーリ(1938-2017)はナポリの人で William Redford の偽名でマカロニ・ウエスタンの監督としてデビューするが、やがてアクチュアルなイタリアの社会的テーマをとりあげて、政治とマフィアを扱う作品などを実名で監督するようになる。

実際、この映画はファシズム時代のマフィアと「鉄の知事」との戦いを描く歴史映画ようでありながら、実際のところはイタリアの1970年代後半に、少しずつ明らかになりつつあった政治とマフィアの関係のアレゴリーとなっている。このころはまだ、マフィアの逮捕ということがなかったから、歴史を振り返るモーリ知事による、なかば強権的なマフィアの一斉逮捕を描いてみせたのだ。

このあたりの演出はじつにマカロニウエスタン的。悪いやつには力で対抗し、徹底的にやり返す。しかも「鉄の長官」の依代がジュリアーノ・ジェンマだからね。サッタ・フローレスの演じたスパノー刑事はさしずめ良心の声をささやくコオロギ。そしてカルディナーレは、シチリアの純朴な魂を反映する妖精というところか。

そんなスパノー/サッタ・フローレスの良心や、シシリアの女/カルディナーレの純朴さの対極にファシストがいる。黒シャツを来たファシストたちが登場するのは、

では、この映画に描かれるモーリ知事とはどういうイメージなのか。まず第一に、彼が孤児院の出身だということ。にもかかわらず、国家によって教育されて今の地位を得たという強い自覚。だからこそ、国が国となるところの法と秩序の番人になったという生い立ち。

注意すべきは、この「鉄の知事」がストイックに目指す理想は、あくまでも国家と法だということ。それがあれば、シチリア女/カルディナーレのような境遇であるものたちを救うことができるという信念。そして、モーリにとっての法とは力であり、力こそが秩序をもたらすのだ。

実は、力への信頼は、ある意味、マフィア的なものと重なっている。だからこそ、冒頭のシーンでボスのアントーニオと打ち合いをするシーンは象徴的なのだ。まさに力と力の一対一の対決。映画的にはマカロニウエスタン。無法のなかで、新しく秩序構成的に立ち上がる力は、既存の秩序構成的な力とぶつかるほかない。アメリカの西部劇の前提としてあった暴力肯定の要素を、映画的な娯楽として取り出して見せたのがマカロニウエスタンなのだから。

この力への絶対的な信頼が、カルディナーレとその息子の存在によって強化される。「鉄の知事」にしてみれば、この弱き存在を守るのは、ほかでもない自分でなければならないのだ。それは同時に自分を育ててくれた国家への忠誠の表明でもあるはずだ。

この国家に敵対するのは、じつのところマフィアだけではない。この時期に台頭してきた黒シャツのファシストたちも、じつはマフィアと同じなのだ。だからこそ、1920年、ボローニャ知事であったモーリはファシストたちの騒乱を鎮圧し、その怒りを買っていた。

ところが、ファシストたちはその後、1922年のローマ進軍を経て政権につくと、1923年に成立したアチェルボ法で議会で議会での地位を揺るぎないものにする。そして1924年に起こったマッテオッティ事件を、いわば「沈黙」によって乗り越えると、1925年1月3日にムッソリーニの有名な演説より「ファシズムの独裁」が宣言され強化されるのだが、チェーザレ・モーリがパレルモ知事に任命されるのは、まさにこの年の10月のことなのだ。

スクイティエーリのジェンマ/鉄の知事は、おそらく実在のモーリが抱えていたかもしれない、屈折した気持ちを見事に捉えている。国家の力には恩義を感じながら、それに敵対する力は、力で持って対抗する。ところが、かつての敵は今、リスペクトする国の力となってしまったわけだ。

映像としては、ガンジの町に籠もった匪賊の討伐作戦が象徴的だ。モーリが率いるのはブルーの制服のカラビニエーリなのだが、討伐が終わったころに、ファシズムの歌を歌いながら黒シャツを着た連中があらわれ、手柄を奪ってゆこうとする。

そしてラストシーンもまた同様だ。マフィアとファシストの大物ガッリ弁護士との癒着が明らかになったとき、「鉄の知事」は彼を派遣したムッソリーニから呼び戻される。マフィアを跪かせた英雄と称えられながらも、その称賛の言葉の背後に、マフィアと癒着したファシストのガッリ弁護士は、何事もなかったかのように、モーリ知事の後釜にすわることになったのだ。そのガッリが近づいてきて握手を求めたとき、モーリはローマ式の挨拶をしようと提案する。

握手は、モーリが育った時代における儀礼であり、相互の信頼を確認しあう行為なのだとすれば、ローマ式敬礼は新しい時代にあって、身分の差があって握手を許されない人間とも対等に挨拶ができる発明だった。つまり、ジェンマの演じる鉄の知事は、新しい時代の発明を利用して、ファシストとの握手を拒んだということになるのだろう。歴史的な事実かどうかはわからないが、なかなか見せるシーンではある。

歴史的な事実という点でいえば、ガンジの街を取り囲んだとき(1926)、水と電気を止める兵糧攻めを行うシーンがあったが、これはどうやら事実に反し、実際にガンジに電気が通ったのは1928年であり、水道は1930年代になってようやく完成したのだという(https://salvatorefarinella.jimdofree.com/approfondimenti-tematici/1-gennaio-1926-l-assedio-di-gangi/)。
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