すこやか

下宿人のすこやかのレビュー・感想・評価

下宿人(1926年製作の映画)
3.6
イギリス時代のアルフレッド・ヒッチコック最初期の映画。字幕スタッフとして映画界に飛び込みながら、輸入映画のプロットを編集で自由に変更することさえ許された経験がのちの「映画作家」ヒッチコックを形成したのも、ポスプロが大きすぎる裁量権をもったおおらかなサイレント時代の幸福だろうか。彼の特異なキャリアはその遊び心あるイラスト入り字幕からも窺える。

陰影の効いた画面構成や、ハットにマフラー、黒いコートという容疑者の姿は、同時代の映画作家フリッツ・ラングによるノワールを髣髴とさせるが、なにより目を引くのは、のちのヒッチコック映画にたびたび登場する記号の数々だろう。

たとえば、ヒッチコック映画にて、階段の存在はつねに不吉な記号でありつづけた。『レベッカ』にて、嫁いだ邸宅の亡き妻に自身の存在を重ねあわせるようにドレスを着飾ってホームパーティに現れ、夫であるローレンス・オリヴィエをはじめとする参加者一同を騒然とさせたジョーン・フォンテインが、階段を下りながらその姿をみせたように。『断崖』にて、妻のジョーン・フォンテインの殺害を目論む夫のケイリー・グラントが、階段を上りながら寝室で眠る彼女に毒薬を運ぶように。『疑惑の影』にて、未亡人連続殺人事件の容疑者であるジョゼフ・コットンが逃亡先として選んだ親類宅で、彼と同く「チャーリー」と呼ばれる娘テレサ・ライトの親密性が、エントランスから延びる階段の往還によって深まるように。あるいは、『汚名』のクライマックスにて、ケーリー・グラントが軟禁状態で毒殺されかけた瀕死のイングリッド・バーグマンを抱きかかえ、ナチスのメンバーである家主のクロード・レインズに銃を突きつけながら、エントランスホールの階段をゆっくり降りるように。

これら後続作品における階段の表象を予告するかのように、連続殺人犯として疑われる下宿人のアイヴァー・ノヴェロは、家主家族の娘であるジューン・トリップと恋人のマルコム・キーンの逢瀬を階段から除き見て嫉妬の表情を浮かべ、そのあとの不吉な展開を予示するだろうし、階段を歩くことで映画もまた幕を下ろすことになる。
すこやか

すこやか