ベイビー

少年のベイビーのレビュー・感想・評価

少年(1983年製作の映画)
4.2
先日ネットニュースで侯孝賢監督引退のことを知り、胸の奥がキュッと縮まるのを感じました。

大好きな監督がご病気で悩まれていたこともそうなんですが、侯孝賢監督の新作をもう望めないという寂しさは、未来を削られたような心の痛みが残ります。

侯孝賢監督の作品をそこまで多く観てきた訳ではないのですが、今まで観てきたどの作品にも、人間味が溢れ、人生の痛みも描かれ、どこか郷愁に駆られる懐かしさもあり、自然と子どもの頃の記憶を呼び覚ましてくれていました。

“記憶の遠近法”と言うのでしょうか。楽しかった記憶ほど意識の奥へ遠ざかり、心に痛みが伴う記憶ほど、意識下の一番浅い階層のところで居座り続けます。思い出は常に美しいものばかりではなく、痛みや恥、そして後悔という暗い記憶がいつまでも付き纏うもの。その惨めで居た堪れない感情と葛藤しつつ、人は自分と向き合いながら少しずつ成長して行くのです…

今日観たのも、そんな痛みが残る作品でした。

僕は引退のニュースを見たあと、限りある侯孝賢監督作品を大切に観たいと思うようになり、何か今から観られるものはないかとFilmarksで侯孝賢監督の作品を調べていたところ、本作が「台湾巨匠傑作選2023」という企画にて上映されているのを知りました。

原作は朱天文の短篇小説で、監督をされたのはチェン・クンホウ監督。侯孝賢氏は製作と脚本にだけ参加されているとのことでしたが、それでも侯孝賢氏が携わった作品を観れるチャンスだと思い、急いで上映最終日の映画館に駆け込みました。

邦題:「少年」
原題:「小畢的故事」(シャオビーの物語)
英題:「Growing Up」

どのタイトルもこの作品にピッタリと当てはまる内容でした。シャオビー少年の成長を見つめる物語。6歳になるシャオビーを連れ、母親が歳の離れた年配の男性と結婚するところから物語は始まります。

シャオビーは幼少の頃から悪戯好きで、小学生になってもやんちゃは止まらず、通知表にも「傲慢不遜である」と書かれ、中学生になっても悪い友達と連む日々を過ごしています。

シャオビーが何かするたびに彼を庇い続ける母と義父。母はシャオビーが道を踏み外さぬよう厳しく躾け、義父はシャオビーに寄り添いずっと味方で居てくれます。そんな親の愛情を知ってか知らずか、シャオビーの甘えは止まることを知らず、彼の素行が良くなることはありませんでした…

僕もシャオビーと同じで、母や父の優しさに触れながらも感謝をするわけでもなく、時には母や父の助言が鬱陶しく感じることもあり、つい勢い余って「そういうの親切じゃなく、余計なお節介って言うんだよ!」と怒鳴ってしまったことがありました。あの時の母の顔と後悔は今でも記憶の中にこびり付いています。

親の元で子は子でいられ、わがままでいられ、甘え、許され、助けられながら成長して行く。いくら愚行を繰り返そうと、いくらこちらが親から離れようと、ずっと親は傍にいて、ずっと親は親でいてくれる…

しかし、それは永遠ではありません。“いつか”は必ず来ます。その存在もいずれ記憶という遠近法の彼方へ溶け込み、思い出の姿とでしか会えなくなるのです…


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この作品の同時期に「風櫃の少年」が公開されました。「風櫃の少年」は侯孝賢氏の自伝的作品と言われてますが、本作も「風櫃の少年」のような侯孝賢氏の少年期を想像させるやんちゃぶりが詳細に描かれていました。

例えば、母のお見合いの日に池で泳いでいた錦鯉目がけ輪ゴムを撃ち込んだり、下校時に意味もなくアヒルを威嚇するよう追い回したり、戯れてくる仔犬を捕まえ無理矢理ハサミで毛を刈り取ったりと、シャオビーは無邪気な顔をして残酷な一面を見せていました。そしてそのまま中学に入ると悪戯と喧嘩に明け暮れてばかりいます。

「風櫃の少年」といい、エドワード・ヤン監督の「牯嶺街少年殺人事件」といい、そして本作といい、この時代の台湾の少年たちの鬱憤エネルギーは一体どれだけ溜まっているのでしょうか?呆れるほど悪さばかりしてませんか?それが侯孝賢氏の思い出ってことなんでしょうか?

まだ“青春”とも呼べない、子どもの頃の遠い記憶…

いつまでもその記憶が消えないよう、どうぞお身体を大事になさってください。
ベイビー

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