ルサチマ

魔法少女を忘れないのルサチマのレビュー・感想・評価

魔法少女を忘れない(2011年製作の映画)
5.0
娯楽映画として最高のクオリティである今作に涙を禁じ得ない。堀禎一は本当に夏を撮るのが上手い。

映画で過去を扱うのは本当に難しいが、この映画はすでに元魔法少女という有り得ない設定から始まる。そんなすでに何かを終えてる少女の名前は「未来」という矛盾した名前を有する。
彼女の記憶を留めるために用いられるのは一瞬を切り取ると同時に大量消費されるプリクラという機械であり、彼らの思い出はフィルム映像として挿入される。
自転車は前=未来への前進のための道具であり、同時に思春期の彼らだけを運ぶ乗り物。
『弁当屋の人妻』から繰り返されてきた自転車はついに『魔法少女を忘れない』において、足をめぐる主題として確立する。
元魔法少女としての未来が初めて画面に姿を表す時、それはベッドに横たわる素足をカメラは捉えるのであり、以降この未来が自転車を漕ぐとき、友人とプリクラを撮影するとき、ダンスを踊るとき何度もカメラは少女たり得るための足を焼き付けるだろう。
そしてこの元魔法少女の足を見ていて思い出すのは、担任教師の前田亜季が映画冒頭でその足を未来と同様に示されていた記憶だ。

「魔法少女はいつもとなりに」のテロップが示すように足をめぐる主題は確実に前田亜季から谷内里早へと継承されている。

そうした元魔法少女が切り取られる足を繰り返し目撃した者は必然的に、いつ地上(自転車のペダル)から彼女の足が離れるのかという嫌な予感を抱くのだが、堀禎一はその予感に応えながらも決して嫌なものとしてではなく、つかの間の映画的僥倖として元魔法少女の足が地から離れることを描く。ここに堀禎一の演出は懸けられているであろうし、その魔法のような懸けに自らの目を加担させることが、映画のフィクションの次元を高める奇跡へとつながる。

足をめぐる主題の確認をした以上、最早この映画について多く語ることは野暮であるかもしれないが、劇中のダンスシーンと森田涼花の告白シーンの素晴らしさをどうしても触れずにはおけない。

4人で踊る中、未来に寄る単独のクロースアップのタイミングと全員のグループショットへ戻る選択を一切外すことがない職人技の技量にまず驚くのだが、更には観客席にいる森田涼花のリアクションをクロースアップで同時的に抑えており、視線をめぐるスリリングなドラマが物語られている。

古典ハリウッド以降、これほど説話に奉仕しながらも映画的な画面の運動が連携される娯楽映画があっただろうか。
ダンスシーンの最後、ついにカメラが左側に周るのだが、たった数秒のために懸けられたこのカメラポジションが映画全体を揺るがすことを観客は打ち付けられるように目撃する。そしてこのカットの切り替わりがその後の森田涼花の告白シーンにおいても再現されるのだが、この確信犯的なカット割と俳優の顔を捉える見事な橋本彩子のカメラの連携に1人の映画青年としてただ放心する。

紛れもない奇跡としてのこの映画を単なる商業的要請で製作された映画として見做すことは堀禎一映画においては許されない。紛れもない職人技が成立させる映画でありながら、商業映画とは思えぬ自由で革新的な演出の連続を実現してみせる手腕を持つ映画作家が果たしてどれだけいるのだろう。

堀禎一の映画の奇跡を忘れないためにも、何度だって上映されてほしいと切に願う。
ルサチマ

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