映画漬廃人伊波興一

飢餓海峡の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

飢餓海峡(1965年製作の映画)
4.1
監督がその俳優を被写体として信じ切る、という事

内田吐夢
「飢餓海峡」「宮本武蔵」

私たちの瞳は、スクリーンの俳優たちのどんな瞬間に釘付けになるのか。

それは彼らが名演技を披露している時では決してない。

名優だの、駆け出しだの、大根だのといった問答は取るに足らぬ問題です。

実際、アンソニー・ホプキンスやメリル・ストリープ、ロバート・デ・ニーロらがいくら出演作品の殆どで名演技を披露してくれても全てが等しく驚きをもたらすわけではない。

その瞬間は監督がその俳優を被写体として信じ切っていると、私たちが確信できた時にしか生まれない。

70年代にはB級活劇専門だったデビット・キャラダイン が、あるいは80年代のアイドルの残滓にしか過ぎなかったジョン・トラヴォルタが、さらにそれまで無名に近かった栗山千明が、21世紀のスクリーンに炸裂したのを見れば、クエンティン・タランティーノがいかに彼らを被写体として信じ切っていたかが、よく分かります。

また演技賞など貰ってしまったため、枯渇したイメージを抱えた豪華俳優陣たちが、改めて(出世作)に出演したような初々しさで返り咲いたウェス・アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』の魔法の秘密も同様です。

日本にだってそんな現象は数多(あまた)あります。

80年代のわたくしなど鶴見辰吾さんが石井隆監督の「GONIN」「GONIN2」に現れた瞬間は息を呑んだ。
黒沢清監督の「蛇の道」「蜘蛛の瞳」に現れた哀川翔さんや「CURE」に現れた萩原聖人さんや役所広司さんにも息を呑みました。

そして60年代の観客の方々は必ずや内田吐夢監督の「飢餓海峡」「宮本武蔵」の犬飼多吉、沢庵宗彭、杉戸八重、弓坂吉太郎本刑事、新免武蔵を演じた俳優たちにその瞳が釘付けにされたに違いない。

三國連太郎さん、左幸子さん、伴淳三郎さん、中村(萬屋)錦之介さんが誰の目にも名優であるのは明白ですが「飢餓海峡」「宮本武蔵」の彼らに驚かされるのは、名優による名演技でなく、やはり彼ら職業俳優が撮られていくうちに、配役の枠を超えて未知【フィクション】の存在として(艶)を帯びたまま私たちに迫って来る不思議さに見舞われた瞬間によるものだ、と個人的に思ってます。

内田吐夢監督の役者を信頼する力はハンパではない。

監督が役者を信頼するという事は、演技力を信頼することにとどまらず、彼ら、彼女らが画面上でおさまるフィクションとしての存在感に対する信頼にほかなりません。
演じる役柄が架空の人物であろうが、歴史上実在する人物であろうが徹底的に未知化=フィクション化された時、笑いや悲しみを超えた普遍のキャラクターとして孤立していくと思うのです。