せいか

D.N.A.のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

D.N.A.(1996年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

12/18、GEOにてDVDレンタルして視聴。字幕版。
原作既読済みだが、原作が好きなので映像化作品を観ることにしたというよりも、『TÄR』を観るにあたって本作をみといたほうが良さそうなので観ることにした。(本作の撮影地が知りたかったのだが、よくわからず。だが、主なロケ地はオーストラリアのQueenslandのようだ。特にPort Douglas一帯。また、少なくとも作品設定上はという前提だが、ジャワ海の名前が出ている。)
観るまで知らなかったが、本作は制作進行で泥舟漕ぎまくる羽目になったいわくつきの作品らしく、これのためにいろいろ制約が生まれてしまったとか。それが原因の全てなのかは知らないが、評価もかなり低いとされる作品となっている。とはいえ話題性はあるらしく、本作に関するドキュメンタリーもあるとかで、どうせならそちらも観てみたいものだが、残念ながら日本国内では観るのは難しい現状らしい。

以下、本作、なかなか面白かったので視聴メモ状態の長文になる。ディレクターズ・カット版のほうも興味あるけど、今回見たのはそうじゃないほう。


先に観た1977年版と比べても始まり方にしろ人物イメージにしろだいぶ原作に近いところにある。
ただ、主人公の漂流は飛行機の墜落に変えられており、(国連の交渉官として)平和条約の任務を負っていたというものになっている。船に拾われるまでの漂流中の地獄の様相もコンスタントにまとめ直され、こちらでは主人公が同乗者の死に加担するルートが採用されている。
冒頭でティモール島などのあの辺一帯の地名が出されており、より明確にモローの島との位置関係を匂わせているかと思う。ロケ地自体はオーストラリアのようだが、主人公を拾った船の船員たちといい、東南アジアであることがにおわされている。ちなみにこの船内でのやり取りの中で動物の描写などは一切なく、意識が朦朧としている中でモンゴメリーと会話しているのみに変更されていた。冒頭のウサギ描写にしろ、こちらは登場するが野放しにするなどのくだりがなかったり、獣人間の登場をだいぶ遅らせていたりなども違いは色々ある。ウサギのシーンでは、主人公が昔飼ってみたけど育てるのにすぐに飽きてしまうんだよねという残酷な無邪気さを語るとモンゴメリーが主人公に愛でさせたウサギの首を(食事に回しはするのだが)折って見せるシーンがなかなか印象深い。

本作では時代設定は2010年となっている(ちなみに映画公開は1996年なので、当時においては近未来作品の立ち位置を取っていた)。
モローらが住まう場所は時代の変更の影響もあるがジャングルの中に作られたちょっとした基地の様相を帯びており、ここもなんとなくベトナム戦争の印象(やその他の人間の闘争のすべて)を彷彿とさせるのだけれど、本作が置き換えることで語り直している点はそこにあると思われる。彼ら白人たちは東南アジアに無遠慮に足を踏み入れ居座り、なおかつモローは、獣たちを獣から人間にするのだという傲慢な意志のもとでの生体実験を行って獣人間に囲まれた閉鎖空間で暮らしているのである。主人公が平和の勅使でありながら極限状態において他人の死を看過して放浪していたりもそうだけれど、原作の要点を押さえつつ現代に置き換えて語り直そうとしているところはだいぶ丁寧にやっていたと思う(1977年版はそこがとにかく無茶苦茶だったので、なおさら、それができてるだけでも観ていて嬉しかった)。映画製作時点では近未来の話としていたのも、現在への絶望と近い将来に必然的に訪れるだろう影を意識していたのだろうし、そういうテーマのもたせ方はめちゃくちゃ好き。
滞留地の中はだいぶ知識人の住まいの様相で、だいぶ限界ギリギリ(というか木製の小屋の)文化人生活のイメージがある原作からは改変されている。1977年版も楽園(=牧歌的)のイメージのためか二階建ての木製の屋敷みたいな状態だったが、こちらは基地的な見た目の平屋。中に入ってしまえばなんとなく東南アジア的なバケーションのための宿泊施設的な雰囲気を伴う。1977年版は説得力がなかったが、こちらはその形象を持たせる意味を持たせたうえでやっているので、そういうところも好感が持てる。
モロー博士はノーベル賞受賞者にもなっている。

また、1977年版もそうだが、こちらも原作にはないヒロインがいる。こちらも猫科の獣人間で、たぶん、原作のピューマだったかを元にしたそれを下地にしているのだろうが、1977年版にしろこちらにしろこの上なくヒロインとして作り直していることは共通している。映画的にやっぱそういうの必要なのかなと思うばかりである。イヴみたいな立ち位置にあるものだとも思うけれど。こちらも白人女性(※父親はペルシャ系とのこと)が演ずる。登場時はインド音楽らしきものを流しながら何となくインド人っぽく踊っていた。モロー博士の娘というポジションでいる。

主人公はモンゴメリーに部屋に閉じ込められるも脱出して実験室に迷い込むのだが、実験室もいかにも現代的なものに近づいていて、全体的にシルバーでまとめられていて無機質で清潔感がある。動物たち(草食獣もいれば肉食獣もいる)の檻の奥の手術台で緑色の手術服を着て実験相手を囲んでいる最初のシーンはなかなかぞっとするものがある。とにかく彼はそこで獣人間のメスが人間には近いがなんとなくエイリアンめいた異形でもある赤子を産むのを目の当たりにし、ここから急転直下、パニックになった彼の前に次々と異様な人間たち(獣人間)が現れる。のだが、そうやって遭遇する獣人間がなんとなくどこかのインディアンっぽい服装に身を包んでいたりするのも印象的。ヒロインがインドっぽかったり、獣人間ではないけれど、冒頭の船の船長たちの東南アジア人の様相だったり、やはり、いわゆる白人以外のというか、白人が見た白人以外の人々の特徴を出すことを意識しているのだと思われる。手術着などもそうだけれど、他にも、西洋的な服装をしているものなんかは畏まったようなドレスシャツの「文明人」の衣装を着ていたりというのもそうした上でさらに印象深いものとしているし(他には露骨に軍服のようなものもある)、そうした博士の側にいる獣人間たちが比較的容姿も服装も「人間的」であるのに対し、ジャングルの中で暮らす、より獣に近い獣人間たちは身なりも粗雑(なんとなくスラム的な汚さ)だったり野生じみていたりするのが露骨に対象的なものにされていて、こうした舞台装置の意図の明確さはいっそ観てて心地よくもある。ちなみにドレスシャツ的なより畏まった感じの服装をしている人々はモローの子供たちの立場にあるもののようだが(とはいえどの獣人間たちの父でもあるのだけど)、まともに人間に近い見た目をしているのはやはりヒロインのみ。
もちろん、自然を我がものとして支配する人間に対する皮肉なんかも作中は並行して描いても居る。

原作では洞窟の中などの自然に放たれていた獣人間たちの集落は本作では飛行機の残骸などを利用した廃屋として表現されている。そこで汚らしく生きている彼らの中に足を踏み入れることになった主人公はその汚穢に露骨に嫌悪感を示して口と鼻を塞いで進んでいく。かくして原作でも重要な位置にある、長老的なポジションの獣人間がほかの人々に人間とはを話す場面にやって来る。本作においてはここもまた一味加えられていて、我々は次第に(モローが望むような)人間性は失っていくだろうが、われわれは(それでも)人間なのだという語りの持つ意味を変えさせている。この集落のシーン全体を通して感じるのは、やはり、白人社会(というか外部との接触と言い換えてもいいのかもしれないが、少なくとも本作はベトナム戦争を踏まえての作劇だと思うので、白人社会としておく)に文化も何もかも踏み荒らされた現地住民たちという構図というものである。モローの歪んだ創造主としてのこの社会への君臨もそういう意味で二重のものとなっている。
また、長老は本作ではヤギまたは羊の獣人間となっていて、神の子としての羊、悪魔を連想させるヤギのイメージが掛け合わされている特徴がある。

本編開始30分過ぎになって、主人公が逃げ込んでいた形でもあった獣人間の集落まで神輿のような形で車に乗ってやってきたシーンでモローがついにお目見えする。顔まで白づくめの彼はいかにも神としての特徴が強められている(顔の白塗りはたぶん日焼け止めの役割もある?)し、同時に道化的でもある。この二面性なんかは獣人間というものがそもそもそうでもあるけれど、長老のヤギと羊のそれにしろ、そこを意識しているのだろう。モローといえば単に頭おかしめの科学者で、確かに創造主としての歪んだイメージも付与されてはいたけれど、本作ではそこをさらに拡大して驕り高ぶって神様ぶった白い人間としていて、ここでもこれまで述べてきたようなものを見た目からして強調している。軍用車で神輿のように乗り付けて来て住民たちはパニックを起こしているのとかもすごい皮肉。首から下げたごついネックレスみたいなものがリモコンで、これで反抗的な獣人間たちを遠隔で苦しめて黙らせるという神の御業描写にしろ、なかなかやりたいことがはっきりしている。
また、モローを演じるのはマーロン・ブランドで、『地獄の黙示録』ではカーツ大佐を演じた人物で、否が応でも本作のモローの立ち居振る舞いと重複するものがあり、その連想をするように作ってもいるのかなと思った(本作の撮影はいろいろ人間周りでごたついていたらしいのでそのへんの意図はどこまで察していいのかよくわからないが)。
主人公に行いを責められたモローが、聖書を引用して人を責めるなと説いたり、息子である獣人間にイェーツの「The Second Coming」を読ませていたり、一緒にピアノセッションしてたりする。
主人公との食事シーンでは、モローは、悪魔とは人の内面に存在するもので人を陥れるものであると語り、主人公はそんなことよりモローこそが悪魔だと語りもする。ここなんかも外野としてこの地獄に関わっている主人公すらも刺しに行くことを明確化していていい。何せ彼は物語の始まりからして平和の伝令の面をしつつも我が身のうちに悪魔を飼って、彼自身が悪魔を演じていたのだから。ともかく、さらにモローはここで、自分はこの島で研究を重ね、顕微鏡の中に見えたDNAに悪魔の姿を認めたから、より完璧な人間を作るために創造主としてそれを切って繋いだのだとも語る。そうやって私は悪魔を破壊したのだと。モローの理想はそうやって完璧に無垢で、「争うことをしない」人間を生み出すことなのだ。西欧社会の傲慢を語るのになかなか皮肉が過ぎる舞台設計で惚れ惚れするばかりである。
そしてまたそうやって歪んだ創造主によって生み出された子供たちを前にして、ひたすらモローは間違っていると語る主人公も、目の前の人たちを無視している傲慢さがここで描写されている(獣人間たちの集落でのあからさまな嫌悪にしろそうだが)。

原作通り、獣人間たちは獣性から遠ざけるべく血を流すこと、食肉を禁じられているのだが、本作では冒頭あたりのウサギの殺害を他の獣人間に見られていた可能性が浮上し、あの場面が島社会の破滅のフックになっている(=本作の破滅にあたっては外から来た人間である主人公ではなく、モンゴメリーが獅子身中の虫もとい悪魔を演ずる)。人間サイドが獣人間たちには禁じていることを自らの欲のために犯すことで自分たちが回避させようとした混沌を生み出すきっかけになるのである。
ウサギ殺しの犯人などもモローは赦しを与えてもモンゴメリーから銃を受け取っていたその息子が容赦なくその場で射殺するなど、社会の暴力、恐怖が蔓延するきざはしの表現がぞっとするものになっている。

悪魔談義の日の夜にいよいよ島内がやばくなるとか関係なくさっさとずらかろうとボートに乗ろうとした主人公がそこに巣食っていた凶暴化したネズミたちを目の当たりにして逃亡を断念するのとかも、単に主人公は逃げようとしたけど逃げられませんでしたという話にするだけじゃなくて、蔓延する何かによって阻まれるような印象を与えている感じ。

モローは結局、人間にしろ獣人間にしろ、他者の死を悼む心がある者も、人間と遠くない意味での残酷さに満ちた心がある者も顧みず、自らの実験に耽溺するだけで、社会というものを見ない理想主義者であり一科学者でしかないのだが、その彼がこの社会の長でもあるから水面下では悪意あるものたちがどんどん地獄の暗躍をしていく。

自分たちに植え付けられた制御装置に気づいた獣人間がそれをえぐり出した上でモローと接触し、父であるあなたと似ていない私とは一体何者なのか。あなたはなぜ子であるわれわれに痛みを与えるのかと問うシーンも痺れる。人間は神の似姿を取る云々などというものも彷彿とさせるが、われわれは何者であるのか、神が存在するとしたらなぜこのような運命を与えるのかというよく言われる問いそのものなのだ。そしてまたもっとミクロなことでいえば家族関係という範囲のそれでもあるのだろう。
そしてこの神(=モロー)は、子であれ掟は必要だからだと答えたがために、ならおまえから与えられる痛みを感じなくなれば掟もなくなるのだなということになり、モローも目の前でネックレスの操作機をいじり、こうして獣人間は反逆を宣告するに至る。俺達は人間じゃないのだと。
モローがダメ押しで手元にあった人間の頭蓋骨で殴りかかるのも、それが無謀で即座に囲まれて貪られるのも(そしてこれは神の肉を喰うの直接的な表現でもある)、だいぶサイコーなシーンに仕上がっている。ちっぽけでしかない人間の敗北であり、白人社会の敗北であり、自然の逆襲なのだ。

こうして創造主なる父を失った遺されたひとびとは迷い、長老がその中で生きた父をより高位の存在に位置づけ、彼は我々を見守っているのだからときがくるのを待とうと語る。分かりやすくいよいよキリスト教的神のイメージへと獣人間によって昇華させたわけである。
モンゴメリーが研究室を荒らしてモローの白装束姿に身を包み、モローのように他人を罰するなというくだりを読み上げて一人芝居してるのも皮肉としか言えない。猛り狂う主人公に野蛮だぞと声をかけ、みんなの獣化を止められる血清を始末したと涼しく言いもする。モンゴメリーをこういう役回りにした本作、すごいと思う。本作において90年代のアメリカの答えそのものとしたのは彼なのではないか。本作の一番の主役だと思う。
イカれたモンゴメリーが神輿に乗って獣人間の集落の中で神に成り代わるのとか、そこで下品なパーティーが広げられるがままに寛ぐのとか。サバトめいている。すぐに殺戮に味をしめた獣人間に殺されるのだけれども。

主人公は漂流を助けてもらったのではなくて、それからずっとじっけんのためのDNA採取の被検体として「奪われる」存在だったのだという、ここでも重ねて描かれる価値観の逆転なんかも、そのショックを畳み掛けてくる暴徒化する獣人間たちの混乱も、ここにしたってまさに当時のアメリカ社会が見出してしまった虚無感と破滅を重ねてるのではないか。

ヒロインのラストも、中盤からだいぶ、イカれて狩に執着してた兄弟によって殺されるのだけれども、俺はよく叩かれてたのにおまえはモローにそんなことされなかったよななのも、争いの、原因の一つとして描いていていい。

そして赦されたのに殺された仲間の死を嘆いてたはずのハイエナの獣人間が暴力で支配し、復讐を遂げ、最終的に神になろうとするのにしろ、型にハマりすぎなところはあるけど、マジでいい。

暴力の中に追いやられた主人公がハイエナ獣人間にオレが神だと宣言しろと詰め寄られて、君たちは集団で父の肉を喰った。なら誰がナンバーワンの神になるんだ?ってさらにこの場で悪魔の誘いをするのもいい。なにもかもいい。ナンバーワンのために殺し合いが始まるのである。
唯一神ならばそこに座るのは一人だけ、掟を強いれるのは一人だけ。イニシアチブを握れるのは一人だけなのだ。人間社会(特にここではやはりアメリカなのだろうが)を刺しに来てるのがいい。この殺し合いのときに人間側が溜め込んでいた武器類が大活躍するのもとことん皮肉で、暴力の連鎖をきれいにまとめていると思う。
この混沌の場となった基地を炎上させるのは、意図的に(特に文明人的に発育していた獣人間の手による)一本の松明だったり、炎という、人間を人間たらしめる原初の原因の一つとなったものでまとめるのはいっそ美しいんよである。
一連の戦闘の後も生き残ったハイエナ獣人間は比較的穏やかな獣人間たちからも排斥され、炎上する屋敷の中に父を求めて去っていく。再び、自己存在の意味を問いながら。

ことは終わり、島を去ることにした主人公が、血清が作れる人物だとかを連れて戻ってきて君たちを救うと言われたときに、長老が静かに、私達は獣であって人間じゃないと語る結論がまたまとめとしていい。二本脚はわれわれには難しく、四本脚がふさわしいのだと。
強いられた矯正によって物事は正しくなるわけではないんだよなあ。人間である主人公とそうではない長老たちが見つめ合う間の、沈黙のうちの別離の承諾、返事。

エピローグは原作小説通りの主人公のモノローグとなる。時折暗澹たる思いにかられ、人間たちも獣と変わらないではないかと思う。そして私は不安に思う(「And I go... in fear.」)のだと。そういう語りの中で現実の実際の暴力的な撮影映像が入れ代わり立ち代わり映し出される。こうして本作としてのモロー博士の島の語り直しを終えるわけである。


本作、不評めらしいというざっくりしたことは把握した上で観ることになってたけど、だいぶ一つの作品として表現したいこと自体ははっきりさせた上で表現もしていて、なんや面白いやんという感想であった。
繰り返しになるが、原作小説のエッセンスを踏まえつつリメイク作品として今ここの作品として語り直した良作。問題意識を明確化した上で作られている。現実の今ここの特にアメリカ社会(に限った話ではないが)を振り返って内省し、未来に影を見出す。地獄を生み出しているのは何であるのか。生けるものを彷徨わせているのは何であるのか。
原作小説にしろ1977年版にしろ、一つの社会が徹底的にぶっ壊れた中で逃げ帰るというスリラーはないわけではないけど捨て去り、自分たちが無理やり作り出した一つの社会のゆるやかな終わりの名残に見守られ、拒絶され、決別して去っていき、そして心の傷としてその余韻を残すものという静かな幕引きにしたアレンジが好みだった。その静かさのうちに、しかし、人間社会はいつまでも地獄を演じ続ける絶望が込められてもいるのである。自分たちの存在を認めることもきっとないまま、ゆるやかに正常化に身を任せることもないままに。

『地獄の黙示録』にしてもそうだけれど、人間という「恐怖」が振り返ったときに欠かせないのだなあ。


作品情報参考
・https://www.ozmovies.com.au/movie/island-of-dr-moreau#:~:text=Moreau%2C%20which%20was%20filmed%20in,of%20the%20H.%20G.%20Wells%20novel.
せいか

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