カラン

たのしい知識のカランのレビュー・感想・評価

たのしい知識(1969年製作の映画)
5.0
かなりたのしい。

この映画はORTFというテレビ局のテレビ放送用にジャン=ジャック・ルソーの『エミール』という教育論に関する作成依頼を受けて撮られた。ORTFはRTF(フランス国営放送)を前身とするもので、1968年にゴダールが完成させたものを拒否した。当たり前だが。街を練り歩いてバリケードを作る学生運動やカンヌ映画祭の中止など、揺れに揺れていた当時のフランス社会で、改革派の主な主張は大統領のドゴールを失脚させることである。そのドゴールの写真を映し出して革命を訴えるこの映画を、フランスの学校の教科書にのっているルソーの映画を求めた国営放送が受け取るわけがない。


この映画がやろうとしていることは、
①当時の息吹をリアルタイムに伝えること
→デモで揺れる街路で録音してきた音声を流す
→68年5月に若者たちが連呼したリーダーを映す
→マルクス、フロイト、ハイデガー、サルトル、デリダ、フーコー、ラカン、レヴィ=ストロース等、68年5月のフランスの若者たちが憑かれていた哲学者らのテクストが読まれる。デリダの『グラマトロジーについて』の刊行は1967年で、その表紙が映る。この本が映し出されるのは、もちろんこれがデリダのルソー論であるからだ。

②映像と音声の解体
→当時の流行の表象批判であるが、デリダの論敵までゴダールは引用しまくるが、ゴダールの主眼はハイデガー=デリダ的な表象批判であるだろう。この表象批判はナルシズムの閉塞批判であるので、④で説明するが、ゴダールはかなり響いたのではないか。

③音声と映像の一体性を崩すために
→過剰でコラージュ的な引用
→引用元の単語や一節を別の引用と矢継ぎばやに接続させ、テクストの固有性やオリジナリティを破壊
→映像を写して音を停止
→音を出して映像を停止
→そばかすの浮いた子供に、また、おそらく浮浪者の老人に、音声を読み上げて、自由連想させて、ある音声に別のイメージを繋がせたり、時に沈黙させて、常識的な言葉の意味作用を宙吊りにしたり

④ゴダール映画の自意識がいつになく、ない!

→ということで、本作はだいぶ哲学チックなのだが、今観てかっこいいし、楽しかった。何より、ゴダール映画のなよっとした部分がなかった。なよっとした部分というのは、ゴダールはカイエ派ってやつが出自だからね。つまり映画評論からスタートしてる。だから自作に対する自意識がすごく強いのだと思う。苦しかったとは思う。だけどこんなんじゃダメだという自作への批判的な視点は抜きがたく、ゴダール映画に刻印されたのじゃないかな。だからゴダールは、自作に、ゴダール自身を何度もだす。カメオ出演じゃないし、オーソン・ウェルズやウディ・アレンの自作自演とも違う。

ゴダールがゴダールを映すのは、どうしようもない、自意識なんじゃないかな。分かってるんだよ、確信犯なんだよ、自分の映画はっていうポーズとしての自撮り。これがなよっとしているように、私には見えるんだな。小難しい言い方をすると、作家として創造の父になることへの逡巡だね。(自意識の問題以外にもゴダールの自作自演は種々の理由を考えることはできる。例えば、コミュニケーションである。フリッツ・ラングとのとかね。『カルメン』だったら、自己変容とかね。)

この『たのしい知識』はそうした作家の逡巡としての「なよっ」が影を潜める。父が子に真理を伝達するという伝統的な教育観を徹底的に壊すことを目的にした、教育映画を撮ることになって、自分は街頭の扇動者よろしく他人のテクストを読みつづけるとなって、たぶん、酸欠で自意識が消失、少なくとも、緩和されたんじゃないかな。気持ちよくなっちゃってね。あるいは、ハイデガー=デリダの表象の主体批判の欲望に同一化して、うまく自意識を振り払えたのではないかと。そうすると「自己批判」ってことにはなる。はてさて。

とにかくそういうわけでこのゴダール映画は私にとってとても気持ちよく、健やかなものだった。一応言っておくと、ゴダールはノイズと共に扇動者風にテクストを読み上げる声と、一回だけピンナップで登場ね。ピンナップにはゼロと書かれてた。また、カメラはラウール・クタールではない。ベルイマン with スヴェン・ニクヴィストな感じの影を与えながら、闇のスタジオでレオーとジュリエット・ベルトを浮かび上がらせていた。

とても素敵でした。爽やか。何回も観れる。たぶん眠れぬ夜に最適なのでは。(^^)


Blu-rayであるが、瑞々しいんだよねー。1968の映画がねー。音質もいい。
カラン

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