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ソルジャーブルーのmasatのレビュー・感想・評価

ソルジャーブルー(1970年製作の映画)
2.0
悪名高きインディアン・スプラッター・ウェスタンをやっと観た。
思えば、40数年前、こんな作品がフジテレビの金曜日の21時、ゴールデンタイムに、高島忠夫の嬉々としてべしゃる解説と共に(勿論)無料で全国放送されていたとは驚きである。
子供も大人も「へぇ、すごいなー」と漏らしながら観ていた訳だから、逞しい時代だった事が実感できる。

確かに、やっていた。
インディアンが次々と撃ち殺されるのは、当たり前で、生きたまま燃やされ、さらにレイプは勿論、女性の首が飛び、乳房がナイフで抉り取られたりの、文字通り地獄絵図を繰り広げる。
その“地獄”を映し撮ることに執念を燃やしているのか?
その地獄は、公開当時、アメリカ人にとって、居間にあるテレビで毎日放送されていたヴェトナムの虐殺を敢えて再現し、2度の侵略行為に高ぶるアメリカの実態を問い詰めようとしているのか?
そんな野心に近い志により、観る者を直撃する!かどうか?が議論の対象になろう。

確かに、残虐である。
しかし、そう言ったメッセージ性に打たれるかどうかと言えば、残念ながら見せ物に終わった感がある。
よって、この1970年、アメリカを席巻していたアメリカン・ニューシネマの勇姿の一群に加われるかどうかと言えば、意見が分かれるだろう。
確かに、目の前の現代を、1世紀前の殺戮に投影しようとした試みは理解できる。アメリカ人が語りたくない恥部を暴露しようとした訳だから。
決定的に弱いのは、その無謀で過激な企みを託そうとした主人公たちの行動原理とゴールが余りにも弱く、重心がなく、観る者の気持ちの置き所がない。よってその痛み、その悪行が迫ってこないのである。
若き騎兵隊員、そして先住民族に嫁いでいたアメリカ女、こんな2人のロードムービーと言う、この時期、絶好の題材なだけに勿体無いモノに成り下がっている。

しかし、やってしまったのだから・・・
悪名を轟かせながら、無視されずに、未だに70年代のアメリカ映画の問題作の末席に、アメリカン・ニューシネマの様な、ない様な顔をして座っているのである。

また、この1970年には面白いことに、もう一本、アメリカ人を捨て、先住民族に入っていった男の物語が公開された。アメリカン・ニューシネマの先陣を切ったボニー&クライドを鮮烈に描いた奴がメガホンを取った。インディアンを焼き払い、ナパームで殲滅する・・・そんな二つの侵略行為をダスティン・ホフマンは、まるで法螺話しのようにディック・スミスのメイクによって100歳を超えるイカサマ老人に化け、見つめていたのである。
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