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S.F.第7惑星の謎の0000のレビュー・感想・評価

S.F.第7惑星の謎(1961年製作の映画)
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謎の惑星(に潜む怪物だったり惑星自体だったり)が人間の記憶を元にして人間に対し幻覚を見せる(ないし実体を生成する)という話、ドラえもん映画の『宇宙漂流記』でもあったし『スタートレック』でも似たようなエピソードがあるそうな。有名なのはタルコフスキーの『惑星ソラリス』だが、その原作小説のレム『ソラリスの陽のもとに』がソ連で発表されたのとほとんど同じ時期に作られた映画がこの『SF第7惑星の謎』なので、脚本の発想がすごい! みたいに言われることもあるけれど、実は両者さらに元ネタがあって、ブラッドベリの連作短編『火星年代記』の中の一編『第三探検隊 (The Third Expedition)』がそういう話なのだそうな。それが偉大なる大元なのだそうな。『禁断の惑星』の“イドの怪物”とかもその辺からの発想なのかしらどうなのかしら。この映画の場合、第七惑星(天王星)のはずなのにぱっと見地球の景色というシーンが多く含まれるゆえの予算節約的側面と合致したアイデアであるとともに、その風景にシュールな異化効果を与えているという意味ではウルトラセブンの『第四惑星の悪夢』やゴダール『アルファヴィル』、はたまた『猿の惑星』等にも類似する宇宙探検映画でもある。とはいえ、そのぱっと見の風景の外側に広がる本当の天王星の姿や怪物たちなんかもちゃんと描かれるので、しっかりと本格的異星アドベンチャースペクタクル映画にまとまっている。

で、この映画ですばらしいのは、“セカイ”が実は自分に見えているところ以外映画のセットのように、ハリボテみたいに、見えてないところに裏側があるんじゃないかという、子供のとき見た怖い夢のような、「培養液の中の脳」や「自分以外ロボットやオバケじゃないか」とかに通じる独我論的不安、そういう感覚をしっかり表現できてる点。セカイの化けの皮が剥がれてしまう瞬間、セカイがセカイのようでセカイでないことに気づいてしまう瞬間のゾワッとする感じをちゃんと描いている。イブ・メルキオールの携わった作品はそういう悪夢的感覚にバチバチ訴えてくるものが多い。ある種のセンスオブワンダー。

で、この映画のものすごいところは、合成の類をおそらく一切用いてない特撮映画であるということ。
簡単な多重露光のカットはちょいちょいあるけど、合成カットがぜんぜんない。人がモンスターみたいなのに飲み込まれるシーンをモンスターと人物の顔の切り返しと叫び声と「飲み込まれた」という説明台詞だけで表現してる(いやあんまり表現できてないが。説明台詞ないと何が表現されてるのかよくわからなかったが……)。レーザー光線はフィルムに直接白く傷つけてるだけ。
ロケットが宇宙を飛んでるカットも、たぶん星空の絵とロケットを描いた絵の単なる二重露光。
オプチカル合成はもちろん、シュフタンプロセス等の鏡を使ったトリック撮影とか遠近法とかそういうこざかしいことも何ひとつしてない。
コマ撮りアニメーションのモンスターが出てくるシーンがあるけど人間と一緒に映ってるカットなし。単純なカットバックとその目線の演技だけでモンスターの大きさは表現(?)されている。
スクリーンプロセスもなし。
もちろんマット合成もなし。
1961年のアメリカの、B級とはいえ一応しっかりした商業映画で、しかもこの物語内容で、究極的超アナログ主義、と言おうかなんと言おうか……。ある意味でこれこそホンモノの力、嘘やハッタリやトリック一切なし、圧倒的実在感、と言おうかなんと言おうか。
SF映画がB級ジャンルでしかありえなかった時代、宇宙/宇宙人をテーマとするSF映画は数多く作られても、どうしても予算規模的な関係もあり、地球を舞台にしているものの多さに比べ宇宙探検ものの映画というのはかなり少ない。しかし工夫次第で、いやむしろ工夫もそこそこに(!)ここまでの本格宇宙冒険映画を作ってしまっている、作れることを証明してしまっているイブメルキオール&シドニーピンクの途方もないパワフルさ。こんなドB級でもカラー映画として企画を通してるところにも、スペクタクルを体験させたいという気概がある。

さらっと切ない感じの幕切れのあとエンディングがフライミートゥザムーンみたいな感じのジャズっていうかムード歌謡みたいな曲(ちゃんとセブンスプラネットが何とかって歌詞を歌ってる)に乗せて、宇宙を進むロケットの牧歌的な特撮映像を見せるっていう、ブラッドベリ的叙情幻想SFって感じがあって癒される。SFの良さってこういうことだ、って思いが詰まってるような映画。
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