kuu

なぜ生きる 蓮如上人と吉崎炎上のkuuのレビュー・感想・評価

3.5
「なぜ生きる -蓮如上人と吉崎炎上-」2016年90分 蓮如伝記アニメーション映画。
蓮如さんの吹き替えに里見浩太朗す!味があるなぁ。
あらすじ。
不遇を嘆き、寺や坊主を嫌っていた青年・了顕は、もうすぐ生まれてくる子供に希望を託してた。
不幸な事故が、そんな了顕から全てを奪い去ってしまう。
自暴自棄の日々、暗闇にもがき苦しんでいた了顕が出会うのは、蓮如さんの法話やった。
そこには、親鸞さん(鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。浄土真宗の宗祖とされる。)が説いたであろう“なぜ生きる”てのを教示していた。
次第に引き込まれ、心の迷いが晴れた了顕は、蓮如さんの弟子となる。
蓮如さんはカリスマ性があったんやろな。
彼らの宗祖たる親鸞さんもまた法然さん(平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。浄土宗の開祖と仰がれた。)の法話に出会い人生が変わったと聞くし、言葉の力ってスゴい。
参詣者が増える一方の本願寺は、他宗派からの恨みを買い、蓮如上人と了顕たちは京都を追われ、新たな布教の地を求め、北陸の吉崎(福井)にたどり着いた。。。
蓮如さんは小生とは全く生き方は違うけど辿った土地は似てるなぁ京都から北陸にと烏滸がましいかな😊。
小生は親鸞さんや蓮如さんとは違う道にせよ迷いながら独り歩んでる。
人生の中で小生なりに絶対的真理の本質を探している。
そんな本質をええとこ突いているなと納得するんは仏教かなとは思います。
勿論、宗教だけじゃなく哲学にも沢山ある。
また、仏教のなかでも親鸞さんの教えは解りやすいし理解が深める掛橋になるひとも沢山いるんかなと思う。
その教えをもう一つ噛み砕いたんが蓮如さん教えなんやろ、またアニメにしてるし余計解りやすいんちゃうかな。
ただ、宗教アレルギーの方には不向きなアニメかな。
余談ながら
宗教臭いのは苦手な方はこの先はすっ飛ばしてください😊
※小生は浄土真宗の門徒じゃないしは間違いも多いと思いますので、間違いありましたら教示していただければ幸いです。
宗教素人の小生からしたら浄土真宗は、キリスト教と共通点があるように思える。
浄土真宗の崇拝対象で、救済者アミダ仏とキリスト教のヤーヴェ神の性格、宗教の理想として、仏の慈悲と神の愛に対する純粋な信仰による救済、万人の罪の代償としてのキリストの十字架の贖罪と、法蔵菩薩の五劫思惟、兆載永劫の勤苦修行による、罪業深重の衆生救済のための代受苦、罪人ほど神の愛の対象であり、悪人ほど仏の慈悲の目当であり、死して天国に生れて永遠の浄福を恵まれ、浄土に往生して完全なさとりを身につけて仏になる。
罪と悪とに対する人間の深い自覚を共に持つ点等を見るならば、浄土真宗とキリスト教との間には、多くの類似点のあるんちゃうかと思う。
ただ、このような両者の類似は、全く形式的なモンでしかないし、間違い多いのは小生の無知素人故にお許しください。
本質的にはキリスト教と浄土真宗とは著しく異る宗教であるとこもあるし。
それは浄土真宗が仏教やし、特に大乗仏教の共通原理を、自らの本質として浄土真宗も共有しているからやと云えますので。
  ⚠️ネタバレ抵触⚠️
親鸞さんが明らかにしたことは何かについては自分はずぶの素人だし詳しくは分からないが、
親鸞さんの『なぜ生きる』に迷い何かを得たんやと思う。
それを理解したのは蓮如さんやったんかなぁ。
私たちは、何のために生まれてきたのか、何のために生きているんか。
なんで苦しい人生を生きなきゃならんのか。
誰もが、知りたいことの一つやと思う。
親鸞さんの主著『教行信証』冒頭に、
『難思の弘誓は難度の海を度する大船』(阿弥陀仏の本願は、苦しみの海に溺れる俺たちを乗せて、必ず極楽浄土に渡す大船や)
親鸞さんは、苦しみの絶えない人生を、荒波の絶えへん海に例えて、『難度の海』(渡りにくい海)と云ったんやろな。
人は、生まれた時に、この大海原に投げ出される例えやろ。
海に放り出されてしもたら、どこかに向かって泳ぐしかないみたいに、全人類は生きてる以上一生懸命、泳ぎ続けなければならへん。
なら、何に向かって泳ぐんか。
空と水しか見えない大海原やし、全く方角が立たない。
方角も分からず泳いどったら、力尽きて溺れ死ぬだけ。
そうと分かっていても、人は何かに向かって泳ぐしかない。
泳ぎ疲れてもて、なにか浮いたモンにすがっても、気を抜く暇もなく流されたりしてまう。せっかくの掴んでたモンに見放され、潮水のんで苦しむことも多々ある。
すがって、掴んでたモンが小さかったと思い、もっとデカイモンを求めて泳ぐ。
デカイモンに捕まっとっても、さらに大きな波に襲われりゃ、また潮水のんで苦しまなければならない。
死ぬまでその繰り返しで難度海の苦しみには果てしない。
海に溺れる人が、何かにすがらずにおれないように、人間は何かをあて力にし、生きがいにしなければ、生きてはいけない。だが親鸞さんは、妻や子供や金や財産などの生きがいは、みんな大海に浮いているモンであり、必ず裏切っていくんやと。
『煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し』(『歎異抄』後序)
(火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれとる人間のすべては、空事、たわごとばかりやし、真実は一つもあらへん)
旦那や嫁さんを頼りにしとっても、死に別れもありゃ、生き別れもある。
生きがいに育てた子供も、大きくなりゃ親の思いどおりにはならへん。
大事な人を、突然の病気や災害で亡くすっこともある。
ほんで、いよいよ死んでいく時は、平生、頼りにしていたモン全てから見放され、潮水のんで苦しまなならへん。
そないな苦しみや不安の絶えない人生の海を、明るく楽しく渡す大きな船があるんやと親鸞は理解したんかな。『難思の弘誓は難度の海を度する大船』
この大船は、俺たちを極楽浄土まで渡すために、阿弥陀仏の本願によって造られた船やし、親鸞さんは『大悲の願船』(大慈悲の願いによって造られた船)とも云われとる。
てのが親鸞さんの考えたモンなんかなぁもっと複雑やんやろけど、
まぁその教えてのをこの時代にしっかり継承してたんは蓮如なんやろなと。

 

 
kuu

kuu