せいか

変態島のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

変態島(2008年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

12/20、GEOにてDVDレンタルして視聴。字幕版。
原題は「Vinyan(タイ語で「魂」を意味するวิญญาณの読みをローマ字で書いたものかと思われる。)」なので、イカれ邦題であることはよく分かる。たぶん、監督と脚本のタッグが『変態村(こちらも原題は本来はゴルゴダの丘を意味する「Calvaire」)』の人たちなので、その流れで重ねて雑な仕事をしくさっているのだと思われる。『変態村』も物語を無視したネーミングを発揮していて本作でもそうなんだけど、マジでそういうのやめなさいよって感じである。おもろげなタイトルで商業的に成功すればいいのか知らんけど、代わりに作品理解を阻害して、制作者の及び知らんだろう所で勝手に作品を破綻させるの、マジでムカつく。あらゆる邦題やついでにポスター展開などにも言えることですが。
なにはともあれ、『Calvaire』のほうを昔に楽しく拝見してから、こちらのほうも気になっていたので、ウン年越しにやっと観てみたという次第である。

あらすじは、幼い一人息子(※名前がジョシュアなのも多分意図的)を津波で行方不明の形で失くした白人の慈善家夫婦はそれを受け入れられないままにずっとタイのプーケットに滞在し続けていた。ある日、現地で開催された慈善家の集うパーティーに参加したが、寄附対象の集落として紹介された、外界からは閉じられた場所(ベトナムに位置する辺りらしい)に位置する先住民たちの集落の窮状を映した映像の中に(※作中で語られることはないけれど、背景としてそういった地域の窮状がビルマ内戦なども含めた外部との関係の中で避けることを許されずに生み出されていったものであるというのは本作を観るうえでも重要な前提背景である)、妻のほうが失った息子を見つける。だがそれは遠巻きに映る子供の後ろ姿でしかなく、夫も周囲も失くした子供であるはずがないとは思うが、妻の執着のために夫婦でそこへ行くことになって……という話。
ここに出てくる津波というのは、2004年の年末に第地震を原因として実際に起こったものを背景としている。日本では「スマトラ島沖地震」の名称で知られているものである。ちなみに映画の製作は2008年である。
作中では地震の影響も甚大だっただろう一帯なども彷徨っているが、半年後という設定にしても作中を通してほとんど地元の人々やその場所にそうしたものがあった気配はほとんどなく、故意の作りなのか(その存在を極端に減らしてるのは故意だろうけれど)、まるで地震や津波があったということすらも夫婦の妄想であるかのような印象を受けるところはあるが、中盤過ぎから急転直下、かなり直截に現地民たちの語りという形などで地震の話が出てくる。津波に飲み込まれたのは俺の家族もなのだと。

冒頭の問題のビデオを観るシーンで、私たちの寄付でここにこの学校が建てられました。それで次の寄付先についてですが……みたいに話してるのがサイコーにグロテスクであった。寄付して終わり。はい、次に行きましょうみたいな。継続して関わるということを断ち切った寄付文化の在り方の露骨な表現である。日本にも馴染みがあるものだと思うが。寄付として貧しい国に学校を作ろうみたいなやつ。そして本作においてそのグロテスクさはもちろん意図した上で作品の中に入れ込んでいる。

ビデオを観た妻が自分の子供だと信じ込んでいるのは、彼女の中にある(貧者やアジア人たちへの)差別意識とこの地域に対する不信に基づいている。いわく、この一帯では白人の子供は高く売れるといわれているから、自分たちの子供も攫われたに違いないという論法である。そしてそれを多分言葉がわからないと高を括っているのか、現地のタクシーの中で言うのだ。ここも上記の寄付描写に立て続けて慈善を行う彼らの欺瞞性を炙り出すシーンになっているわけである。このシーンの少し先の話になるけれど、ガオのもとへ連れて行く男と会った場所で、自分たちの子供は連れ去られたのだと言っていたら周囲の人間が何やら無愛想に何か接触してきたのとかも、彼女らのその不遜さに繋がるものだったのではないかとも思う。
夫のほうはヒステリックになっていないので、もう六ヶ月たったのだから変わろう。俺達には助けが必要だから(ああいう慈善活動家が言うので皮肉である)、まずは心療内科にでも行こうと持ちかけるが、妻のほうはそれで私がおかしいってかとさらに怒り狂う。そりゃそうだ。
それで発作的にタクシーを飛び出した妻は夜のごみごみした繁華街にドレス姿のまま突っ込むと、島の映像撮影を手引したという人物の居場所をやたらめったらに道行く人々に訊ね始める。つまりもう最初の時点でかなりキているのである。それでまあ商売女候補とでも思われたのか、うろうろした末に何やら怪しげなバーに行くように促され、そこでも行き当たりばったりに人探しを行う。妻を見つけた夫は連れ出そうとするが、妻はヒステリックになって言うことを聞かない。そしてなんと(進行上の都合というやつだが)夫妻の隣に居た人物が彼女が探していた男のことを知っており、案内してくれる流れになる。そして夫のほうもガオの手がかりがつかめたり、アンダーワールドなうさんくさい男が息子の救出を持ちかけると、疑い、信用できないとは思いつつもその綱に縋りたくなってしまうのである。
そもそも物語の導入でこの妻がものすごく水が濁っている海辺だかでバカンスとして泳いでいるシーンから始まっていて(夫はそれを浜辺に建つバンガロー的な建物から見守っている)、津波で息子を失くしてそれを引きずっている彼女が息子を奪ったはずのその地の水辺で戯れているという構造になっている歪みがあったりもしていた。(※一応言っておくが、被災者遺族がこういうことをしているのは異常であるということを言いたいわけではない。)
妻役の女性の演技がすごいのか、最初から彼女が抱える狂気を顔の中に表現していて、見ていて怖かった。
終盤近く、破れかぶれ極まれりで先住民集落の中で飯を貪る中で笑いに囲まれたところでついに気が触れた笑いをするところなんかだいぶホラーである。

本作は、富裕者の欺瞞と欧米社会などの先進国の差別意識、認知の歪みを歪曲させつつこういう物語にしてるのかなと思いながら観ていた。自分とは別のものに寄生しながらも優越感にも浸っているし、実際のところ相手を気味の悪い異物として捉えている。本作はとにかくずっと二人が滞在するこの外国の違和感や気味悪さ(もちろん彼らから観た異常さの範疇である)みたいなものを端々に映すことでそれを補強している。現地の言葉に関しては字幕などが一切出ないので、多分その言葉を解しない主人公たちと同じ土台に立たされてこちらも強制的に気味悪さをそこからも感じさせられる作りにもなっている。その不信感などのタールのような態度が埋められない穴を前にした状態でこの作品の特に妻の形を取って描かれ(あるいはこの地に奪われた息子の姿を取って描かれ)、狂気に蝕まれ、破滅していくのだろう。
作中ではイメージ的な心理描写として息子が登場するのだが、その子供をそのイメージの中で見つめる妻の様子は、突如失わされた自分の子供への執着や愛情に囚われていると素直に見ればいいのかもしれないが、なにかもっと別の冷めたものがあるように私には見えて気持ち悪くなっていた。『Calvaire』もそうだったけれど、制作陣がそういう綺麗な人間描写をするとは思えないというメタ読みもある。
上記したけれど、彼女のほうが社会にとってはよほど異常なところが雰囲気にも現れていたりとか、なんだか怖い作品だった。

とはいえ、不気味なもの、違和感として映すものの中で、特に、「子供」に関する描写がなかなか怖い。
屋敷の中の写真展の中に突然ぽつねんと何か言いたげに半裸状態で現れるその屋敷の子供だとか、貧しいと思われる子らが道の脇に退いたときに何かブツブツ現地の言葉で言っていたりとか、浜辺で石を投げて遊ぶ子供らが夢中になって狙っているのが、主人公たちをホイホイと島まで運んで来て殺された仲介人の死体だったりとか(メモしておくと、主人公たちが探し求めていたガオ自体はその始末のケリはこの仲介人が死ぬことで処理しているので、主人公たちには危害は加えずに滞在を許し、協力する姿勢を見せている。彼と関係があるキムという女が主人公たちの慈善活動を通してつながりのある人物なのでというのもあるが)。
そしてその子供たちを見つめるシーンの妻の顔がいちいち怖いのだ(イメージの中の自分の子供に対してもそうだけれど)。ぼんやりとしていて、それでいて狂っている。

作中で現地の人々は、寄付活動にしろそもそもがそうなのだけれど、子供を探す金持ち白人夫婦に対して過程過程で大金をせびり取っていくという構造もなかなかパンチが効いていて好きであった。
問題の島で差し出された子供は無論全然知らない現地の子供で、現地の人々からしたらこの夫婦はこの子を買いに来たという認識だから、失った子供を探しに来たつもりの夫妻とは食い違っていたり、ここでも彼らの齟齬が表されている。全然知らない現地の薄汚い子供が不気味に主人公(妻)をママと呼んで手を差し出すのも、やはり映画を見ている「私」からするといささか嫌ではあるけど強制的にどうしてもこの白人夫妻の(特に夫の)意識と重なってしまうので、そのときの言いしれぬ気持ち悪さを同調して観てしまって、この制作陣ほんと悪趣味ね!ってしみじみ思いました。『Calvaire』のときからそうなのよな。これは褒め言葉なんですけども。気持ち悪さの感じさせ方がだいぶ匠の技光らせまくっている。
現地民からしたら「子供に変わりはない」という発言とかも棘が強すぎるんだよな……!
ガオが、次行く集落にも子供が居て、そこなら白人の子供もいるって言うのも、「おまえらは子供を買いに来たんだろう」っていう態度で、この折りあえなさというか、分かりあえなさ、それができるはずもなさの表現もうまいんだよなあと思った。涼しい顔をされて豊かなところから見下ろされていた者たちの復讐劇みたいなものでもある。究極的に言えばここのシーンにしたって一方的に学校を建てて満足するのと似たようなもので、現地の人々からすればその自己満足に付き合ってあげている、巻き込まれているようなものなのだ。そして馬鹿げた夫婦にたかって身ぐるみをはいでやることを考えるわけである。
だいぶ穏やかな会話シーンでの中でではあるけど、夫のほうに対してガオが、俺はおまえの妻に探してくれと言われたから探しているだけで、心のケアはできない。それはおまえがやることであって、俺達を責めるのは筋違いであると言うところにしろ、どっちがおかしいかって、そりゃそうよなのだなあ。
この皮肉強めの中盤過ぎシーンで妻の狂気描写の影が薄らいだかと思いきや、さらに輪をかけてあの妻の怖さを出してくる方向に話を持っていけるのでやはり本作はすごい。怖い。怖いよ!!!!


いざ渡航の段取りをつけて違法な方法で船で密入国するのだけれど、このときにあからさまにいわゆる「死の島」に見えるような場所が映ったり、そういう画作りも盛り込まれていた。

作中ではメルギー諸島と思しき場所に滞在したりもしているけれど、ここに関係のある少数民族のモーケン人の神話に、島は大洪水によって本土から離れたのだというものがあるとか。作品がそういうのを意識してるのかまでは分からないが、一応メモとして書いておく。
ビデオ映像撮影地の設定として、モーケン族(またはサロン族ともいう)がいるあたりというのを織り込んでるから、意識していてもおかしくなさそうな気はする。あと、モーケン族にまつわる話としてかなり基本的なものなので、当地の民族宗教的なものの描写とか挟んでもいるのだから、そこの知識は絶対あるはずなので、やはり故意にやってるのだとは思うけれど。モーケン族自体がそもそも漂泊の民であるというのもそうである。

アングラのキーとなる人物と会った日にその島でいわゆる天燈が飛ばされるシーンがある。そのアングラ男もといガオは、主人公(妻)に対してこの天燈について、ひどい死に方をしたら死者の魂は混乱して行き場を失う。怒れる魂をウィンヤンというのだ。天燈はそうした魂を死者の家に導くために行うのだ、彼らが休めるために。そして魂の数だけ火をつけるという説明をする。そして君もやるかと尋ねられて、彼女は、息子は生きているからと、この弔いを断るのである。
そもそもその死を信じてないからそこに居るのではあるけれど、こういうところからも、むしろ息子の魂を安らかにさせないのはそれに執着する遺された者であるという話をしているようにも思った。この点に関してはそうスパッと弔ってやれよと言えるものでもないのだけれど、だいぶ難しい問題を持ち込んできたなあというか。天燈の浮かび上がっていく中で交わされるこの会話によって、浮かび上がることのできない、水の中に沈んだ息子というものが想像できて、本作のいろんな表現しようとしてるものを差し置いて考えてみるに、なかなか哀愁に近いというか、じっとりと濡れて暗いところに転がされているような感じがある。その救いのなさというか。

妻の執念によって一行はガオの顔もあまり効かない現地民の集落にも行くのだけれど、そこでガオたちを責めることもできず、津波の被害は現地民にこそ甚大にあった事実を突きつけられもしつつ、そもそもおまえの妻の始末はおまえがつけろよと正論をぶつけられ(あの狂いようをどう処理しろってんだとは観ている私すら思うので可哀想だけど)、板挟みになった夫は酒に飲まれた勢いで人気のない一帯の中の一軒に火を投げ込んで天燈に見立て(これは妄想シーンなのかもしれないが)、狂った様子で自分の息子の存在が自分たちのもとから消えてくれること、死者の家へ帰ってくれることを願い叫ぶ。どうしようもない状況下にあってついに彼も爆発するしかないというか、自分の問題と向き合うしかなくなったけど逃げられなくて破滅的に後先考えずに爆発したという感じで、ヒステリーは伝染すると目も当てられないからなという気分になってしまうやつ。そう言い捨てるのはよろしくないだろうが。
それで不気味なマスクをした息子らしき子供たちに囲まれる幻想の中で(それを見ているのも夫妻のどちらかは分からない)例のぼんやりした無感動な妻をとにかく犯すのである。夫のほうもどんどん目などの表情の演技に狂気が入ったり正気に戻ったりと彷徨っていく。
終盤では夫のほうも幻覚半ばで現実と曖昧になって息子の幻を見て、その世界の中で妻から子供を開放してやるように諭されたり、もうこっちも頭おかしくなるというか。終盤とか、もう、実は狂ってたのは夫のほうで、妻も既に死んでたりしてずっと幻覚見ながらこの放浪をしてたのではないかと思って怖くなってしまった。「信頼できない」中に置かれている我が身というのが本作の題材の一つでもあったので。幻覚エンドではなかったので妻の狂気旅行はホンモノだったのだけれども。

終盤、夫妻に巻き込まれる形で奥地に取り残されたガオともうひとりの男はそこで不自然に死ぬことになり、ガオに至っては生きながらその地の子供たち群がられて石や土塊を投げつけられて生き埋めになる。夫妻を東南アジアの深みへと誘う人たちは進むほどにまともな目には遭わなくなるのだ。それはガオが代償と称して導き手を殺したのと同じ道理が運命として働いているのだろう。石を投げつけるというのもなんとなく聖書的なところがあって、本作の端々に感じるところではあるけれど、『Calvaire』とのテーマ的なつながりを感じたりもする。が、とにかく怖い。ガオに投げつけるときなどは妻のほうが最初に独りで無感動に彼に石をぶつけたりもしていて、だいぶ異常なるもの、奇異なるものサイドにそういう意味でも彼女は踏み越えて立っている。ラストなんかは子供たちに囲まれて立つという描写でそれが強調されている。

「あの子を開放して」と囁いて、子供たちに滅多刺しにされて腸を引きずり出される夫を無感動に眺め(結局、理性的に物事は見てても自分たちの問題を解決しなかった=開放しなかったというのが欧米社会ともつながるのだろう)、冒頭の、泥色の海から上がってシャワーを浴びるシーンと重なるように、ラストは霧雨を浴びながら原住民の子供たちに自分たちと同じように泥を塗られながら笑うところとか、数多の子らの手が伸ばされて彼女にベタベタと触るのが彼女の中にあるわだかまりを映し出していて、語彙力がないので、ひたすら、怖いよ!!!しか言えないよ!!!!そのままぬるりと黄色い光の中で静謐にエンディングに入るのも怖いよ!!!!!そのエンディングも最後は子供たちの笑い声に囲まれ、いきなり暗転してエンディングごとおわる。怖いよ!!!!!!思えば始まりは血の混じった暗い水の中だったのでそことも対比させてたんだなあとか頭の端では思うけど怖いて。

終盤で主人公たちが彷徨うのが洋館と思しきものの廃屋だったり(不自然に地面に穴ぼこが複数できていたり、なんとなくベトナム戦争を扱った映画の爆撃シーンで出てきたものを彷彿とさせるので、その意図なのかもしれない)、自分たちの生きてきた文化や社会が腐り落ちて何か不気味なものに犯されきっている感じがした。それも身から出た錆に近い何かに。

終盤の先住民たちが全身に泥をまとっているのだけれど、パプアニューギニアのほうにはそういう習俗の人たちがいるみたいだけど、この地方にもいるんだろうか。多分本作では実在のモデルがあるというよりも、何となくの先住民イメージに則りつつ、津波に飲まれたときの泥まみれのイメージを重ねてるのだと思うけれど。物語前半の息子のイメージにそういうものがまさにあったと思うし。
また、後半のその先住民たちになるといよいよ子供しかおらん状態になる(+老夫婦が一組)ので、あの最後の最果ては多分に幻覚混じりだったのではないかと思う。そもそも水辺の集落に誰もいない(敵愾心を剥き出しにする子供が一人いただけ。この地を踏み荒らす外部の存在を受け入れるわけがない)というのにしたって、先の地震の被害でそうなったのではないかと思うし。だからあそこにいた子供たちは作中で言われていたような魂に近くて、妻が錯覚した息子もその中に本当にいたのではないか。だからラストに子供たちに囲まれるというのもそれに泥を塗られるというのもそういう意味で理解する方向性も一つあるのではないかと思った。日本にもパーントゥっていう泥まみれの精霊がいるけれど、ああいうのにも近いと思う。
この作品を妻一人の話まで単純化して捉えた場合、初めから狂ってた彼女にとっては救われる終わり方ではあったのかもしれない。彼女にしろ、子供たちにいつ殺されるのかは分かったものではないが、とはいえ彼女は飯に貪りついたような勢いで自らそちらサイドに立ったひとではあるので、いいように魂たち(仮)に寄生されてその養分となりつつ自らも彷徨う魂となるのだろう。本作で辿ってきたような道程を果てしなく繰り返すというわけでもある。その構図をまた彼女個人から離して捉え直した場合、世界の救いのない営為を、作中の彼女のようなあの生気のない眼差しを見出だせるので、サイコーにバッドエンドでもあるのだけれど。この世界のからくりは救いがない方向にしか進まないのだなあ。


一言でまとめれば、多方面に怖いもの大判振る舞いな作品だった。あと、妻役の女優の演技がハマり過ぎてて狂気表現満点であった。そして狂気に突き合わされることを通してこちらにもストレスフルな体験をさせてくれる。
子供を開放してあげてを富裕な白人夫妻の身から錆的狂気で表現してるけど、欧米社会というか先進国社会を皮肉りつつ地獄機関な社会をあげつらいつつ石を投げなさいで復讐しつつで

東南アジアという(主人公たちにとって非常なる)不気味な異国の地で自然災害にあって子供が死んだけどその死体が出ないという設定にある目に見えない喪失と恐怖感、それを正視できないことというのを描いた作品だった。この作品が言う「子供を開放して」っていうもの持つ不気味さがえぐい。
あと、ある意味、夫ををアリス、妻をウサギとした不思議の国のアリスのダークサイド版。

物語の終わりで最後までとりあえず生きて残るのは妻のみだけれど、ここまでの道程で息子を失ってから夫を始め巻き込んできた人の殆どを死に至らしめるのを考えるに、こうして暗部で死んでいった者たちも、閉鎖的な辺境に取り残された彼女も、始まりにある息子と同じように、死体なき失踪を反復してもいる。そしてまた自然の波に呑まれた社会のイメージと重ねつつ、そもそも社会が人の営みによって残酷な波に呑まれているということもそこには見られもすると思うので、こういうところも表現の仕方がうまいなあと思った。
せいか

せいか