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『日記』に投稿された感想・評価

メザロス・マルタ(欧米表記:Márta Mészáros)は、ハンガリーの女性監督である。
プダペストに生まれ、4歳の時に旧ソ連、キルギスタンへ家族で移住。
7歳の時、スターリ二ズムの為同地にて彫刻家の父・ラースローが連行され、殺害。
同年母も次子の出産に際し、死亡。
ソ連の養母に育てられ、15歳の時に祖国ハンガリーの祖父母に引き取られている。
これは余談であるが、二度の結婚をしており、その二度目の結婚相手はあのヤンチョー・ミロクシュである。

私は通常、タイトルやレビューから視聴する作品を決めており、監督は後となる。
然し今回はそのアプローチが異なり、監督の経歴を知ってから観るべき作品を探した。
それは彼女の苛烈な過去をどのように空間芸術たる映画へ表現し、どのような主張を盛り込むかに興味を持ったが故である。
本作『Naplo gyermekeimnek(子供の為の日記)』は、『日記三部作』の一つであり、彼女が祖国ハンガリーへ戻った際の出来事をドキュンタリータッチで描いている。
父母の死亡の元凶たるスターリン、彼を崇拝し左傾化して行く祖国ハンガリーを15歳の彼女が、どう観、また感じたかを知る資料となるが―。
結論から云うと、そこには深い絶望があった。

本作に於いてメザロスの主張は、検閲による為か、驚く程影を潜めている。
養母であるマグダへの反抗や、ヤノシュとの議論に於いても、飽くまで15歳当時の彼女の知見に基づいた主張はしても、ポリティカルな議論までには繋がらない。
ヤノシュの連行に際しても、泪を流し、自己の決断を祖父へ伝えはするが、飽くまで自己の身の振り方であり、同様である。
この社会像・理念と、彼女の実生活との乖離、更には折々に挿入される父母の記憶と憧憬が、我々に憐憫を催させる。
また、『憂鬱な音曲』を演奏しただけの音楽家が詰らられ孤立するシーンでは、全体主義の実像が垣間見える。

警察国家や全体主義。
これ等の実像を識る為にも、抑えておきたい作品である。
[メーサーロシュ・マールタの壮絶な少女時代] 70点

1984年カンヌ映画祭コンペ部門選出作品。メーサーロシュ・マールタ長編13作目。"日記"四部作の第一篇。『マリとユリ』や『Just Like at Home』といった作品で主要キャラを演じていたツィンコーツィ・ジュジャを自らの分身として迎え、これまでの作品に登場した役者を様々な役で呼び戻している。史実における彼女の幼少期は以下の通り。1931年にハンガリーで生まれるが、1936年に共産主義者だった両親が追放されキルギスで過ごすことになる。スターリン以前の共産主義を支持したため、彫刻家だった父親ラースローは1938年に逮捕され(1945年に死亡)、母親も出産が原因で亡くなってしまい、ソ連にいたハンガリー人共産主義者の元で養育される。一度はハンガリーに戻ったものの、1946年には全ソ連国立映画大学(VGIK)で学ぶためにソ連に渡り、1956年に卒業する。この間、卒業制作などでハンガリーとソ連を往復していたようだ。さて、本作品は1947年にユリがソ連から場面から幕を開ける。彼女を呼び戻したのは、戦前からの共産主義者で、今では党の重要ポストに就いている大叔母マグダだった。家族全員が何らかの形で共産党員だったわけだが、1919年の革命に参加した祖父は今の共産党を嫌っていて、ラーコシ体制下で権力を付け始めた妹マグダを心配している。彼らの家は"裕福"で、貴族を含めた富裕層から接収した食器や衣類などを懐に収めているらしく、祖父はそういった生活を享受している自分を嫌悪している。

ユリは勉強嫌いで、学校を頻繁にサボっては映画を観ている。それを知った狂信者マグダは怒り狂い、どうにかして矯正しようと試みる。そこに登場するのがマグダの長年の同志であり、逮捕脱走後はフランスにいたヤーノシュという人物だ。物腰柔らかで現状を憂う旧世代の共産主義者である彼に、幼い頃に亡くなった父親の面影を重ね合わせる(ちなみに、演じているのは当時のパートナーであり長年の協力者でもあったヤン・ノヴィツキ)。旧世代の共産主義者には両親も含まれており、マグダは彼らが死んでしまったことをいいことに間接的に忘れさせようとしてくるわけだが、その対立に祖父やヤーノシュが参加することで、ギリギリのバランスを取っていたのだ。しかしそれも、ソ連時代の粛清を思い起こさせるような内ゲバによって失われていく。それにしても、ビンカ・ジェリャズコヴァとは違った意味での共産主義への幻滅がかなり強い筆至で描かれているのには驚かされる。
養子縁組もせず、"ソ連から呼び寄せた私が面倒を見る"の一点張りで母親面するマグダへの反抗として、ユリは孤児院行きを望むのだが、これに対するヤーノシュの返しが興味深い。孤児院は戦争孤児たちで溢れ返っている、居場所のない人々のスペースを奪うわけにはいかない、育つのはどこでもできる、最終的に自分の足で立っていることが重要だ、と。ここへ来てクズ男ばかり演じてきたヤン・ノヴィツキが、擬似的な父親として(しかも現代的な考えを持つ)描かれているのだ。ここからは憶測の域だが、寧ろこちらの方がノヴィツキ本人に近いんじゃないかと思うなど。

ユリと映画の出会いは、ソ連時代に母親と二人でよく観に行ったことらしい。映画に触れることは、彼女にとって亡くなった両親に触れることなのだ。怯えるユリに対して母親は"映画だから彼らは死なない、別の作品で他の誰を演じ続けている"という言葉を残す。これは正しく同じ俳優を起用し続けるメーサーロシュ・シネマ・ユニバース(MCU)の根幹にある言葉なのではないか?

追記
ルチアン・ピンティリエ『The Oak』はセクリターテの娘が不条理に満ちたルーマニアを旅する物語だが、ユリの出自もそれに近いものがある。党幹部の息子の誕生日パーティに行くシーンなんか同じようなシーンが同作にも描かれていた。
akrutm

akrutmの感想・評価

3.8
両親が亡くなってハンガリーに戻ってきた少女ユリが、共産党員の養母に抗いながらも好きな映画に接する日々を通じて独り立ちしていく様子を描いた、マールタ・メーサーロッシュ監督の自伝的映画。メーサーロッシュ監督の自伝的映画である「日記」四部作のうちの第一作目であり、1984年のカンヌ国際映画祭でグランプリ(当時は「審査員特別グランプリ」と呼ばれていた)を受賞している。

まさにマールタ・メーサーロッシュ監督が少女時代に経験した事柄を映画化したような作品で、ソ連での粛清によって父親を殺された主人公のユリは、次第にソ連寄りになっていくハンガリー共産党の忠実な党員である叔母マグダを毛嫌いしている。そんな中で、映画館に頻繁に通って映画に没頭しながら、自立した女性として生きていくことを夢見て成長していく姿が印象的に描かれている。第二次世界大戦直後のハンガリーが舞台なので、その頃の状況を知らない(私もよくは知らない)と細かい部分まで理解できていないのかもしれないが、ノスタルジックなモノクロ映像と美しい音楽とともに描かれる、力強く生きていこうとするユリの姿、そしてユリを演じる Zsuzsa Czinkóczi(何と読むかがわからない…)の演技は素晴らしい。

ちなみに彼女は「日記」四部作すべてでユリを演じているようである。次作では映画を学ぶために渡ったソ連でのユリが描かれるとのこと。MUBIで三作目まで公開されていたけれど、最近時間が全然取れないこともあって、本作で力尽きた。第二作以降は日本で未公開のようだっただけに、無念。