河

花嫁人形の河のレビュー・感想・評価

花嫁人形(1919年製作の映画)
4.6
映画における神、支配者である監督が舞台を組み立ててそこに主人公が現れるという冒頭のメタ構造、平面感を持ったセットなど当時のドイツ表現主義映画と共通する部分が多い。

ただ、そのセットは段ボールのようなもので組み立てられたもので、それが演劇的な舞台として映像の中に収まるもの、映像の外に広がりを持たないものとなっている。それは立体的な絵本のような画面に繋がるとともに、作りものであることを明示したものになっている。他のドイツ表現主義の映画でのセットは映像の外にも広がりを持っていて、セットそれ自体ではなく画面全体として平面性を演出しようとしたものなので、根本的には違うことをしているように思う。

メタ構造、そして絵本的なセットはこの映画が監督によって作られたファンタジーだということを強調するためにあるように思う。絵本的なセットと現実的な舞台を行き来する形になっているが、人形が披露される場所はその二つどちらとも違う異世界のような魔法的な空間となっている。さらに、その壁に描かれている模様は冒頭で監督がミニチュアのセットを取り出す箱と同じものとなっている。

その人形が披露される場所、セットが入っている場所がファンタジーが生み出されていく空間のようになっていて、あたかもそこから生み出されたファンタジーを監督が披露するような形に感じられる。そこで、人形は魂を持つようになる。登場人物達はその魂を持った人形に物語的に駆動される形で、欲望、思惑に埋め尽くされた現実世界から生み出されたファンタジーの世界へと移行していくようになる。その移行に伴い物語展開も非現実的になっていく。

そしてその絵本的なセットで表されたファンタジーの世界は、そこに登場してそのまま水たまりに落ちていった主人公に対して、願えば雲が消え太陽が微笑んで現れ乾かしてくれる世界、入ってきた登場人物達をハッピーエンドへと導いてくれる世界となっている。

結婚を拒む、制度や社会の中に吸収されることを拒む子供のような大人が主人公で、領主である父親は家系の存続のために子供の花嫁を募集する。それに対しておそらく資産目当て集まってきた女性たちから、主人公は逃げ出し、教会に隠れる。そこにいる聖職者たちは豚肉を食い漁っていて主人公にかけられた賞金で豚肉を買うために、主人公を帰らせるため人形を花嫁に取ることを提案する。その主人公に群がる現実世界の人々の醜さがその人々の口を切り取ったショットによって象徴される。

その花嫁の人形がそのモデルである人形作りの家の娘と入れ替わることになり、主人公は本当の人間であることを気づかないまま結婚式を終え、教会に人形と賞金を渡しに行く。そこで、人形じゃなく人間であることに気づき結ばれるようになる。

主人公の父は主人公が結婚せずに逃げたことによって死へと近づいていく。人形作りの家の父は娘が人形の代わりに手の届かない場所へと行ってしまったことによって死に近づいていく(心配で一気に老化し、夢遊病として現実世界から遠ざかっていく)。そのため、2人が結婚することが互いの父を死から救うことにもなり、ハッピーエンドの持つ幸福さが増幅される。

また、子供のような大人である主人公に対して、大人のような子供として人形作りの家の子供がサブストーリーとしておかれている。その子供は主人公と同じく家から逃げ出し、ラストには主人公と同じく元の家に帰ることのできる結果になる。

2人の父、子供のサブストーリーがハッピーエンドとしての2人の結婚という一点に収束する。

まだほとんどこの監督の映画見れてないけど、この監督には物語構造によって登場人物達を強制的に幸福な映像状態へと移動させていくハッピーエンド機構みたいな印象があって、それをメタ的に表した映画のように思った。物語として用意された構造の上を映像的な気持ちよさを動力源として駆け抜けていくアトラクションみたいな感覚。この感覚がルビッチ・タッチと呼ばれてるものなんだろうか。

ウェス・アンダーソンはトーキーとサイレントの間の断絶がなかった世界線での映画を作ろうとしている監督、サイレント映画復古をしようとしている監督のように思っていたけど、エルンスト・ルビッチの映画見てそれが確信に変わった。
絵本のようなセットとか縦の画面とかの演出だけでなく、ファンタジー的で剛腕にハッピーエンドへと持っていく物語構造も共通しているように思う。
『フレンチ・ディスパッチ』の文章としてのセリフはその発される映像と一致したリズム含めて、サイレント映画におけるインタータイトルなんだろうと思う。

なぜサイレント映画を今甦らそうとしているのかに関しては、ウェスアンダーソンが映画を通して描いてきた形の人間同士の繋がりが決定的に失われてしまう前の時代として戦前をおいているからなんだろうと思う。
戦争を契機として失われた人同士の結びつきを映画内で作り出すこと、ファンタジーだとしてもハッピーエンドへと持っていくことが、監督の中で戦前のサイレント映画を今のものとして作り出すことと一致しているんじゃないか。
その結びつきが失われてしまったものであることは『グランド・ブダペスト・ホテル』がシュテファン・ツヴァイクの『昨日の世界』をベースにしていることにも、『フレンチ・ディスパッチ』含めて過去になってしまったことについての映画であることにも現れている。

ルビッチが100年前にウェスアンダーソン的な演出をやっているのも驚くし、逆にそのルビッチのしていた演出方法がウェスアンダーソンに至るまで引用されてなかったのも驚く。自分が知らないだけかもしれないけど。
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