YasujiOshiba

狂える戦場のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

狂える戦場(1980年製作の映画)
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イタリア版BD。23-131。圧倒された。マストロヤンニがすごい。その語りを訳したこともあるし、彼について語ったこともあるのだけれど、この作品のマラパルテの演技はすごい。いつものマストロヤンニだけれど凄みがましている。

カヴァーニによれば、ナポリでの撮影はマストロヤンニがいてくれたからうまく行ったのだと言う。最初は、警官に交通整理をさせていたら、だれも言うことを聞かない。マストロヤンニの提案で、下町の人々とカフェを飲み、仲良くなれば、誰もが自主的に映画に協力してくれたのだという。そんなナポリが映画の主人公でもある。

物語は、いわゆる「ナポリの4日間」(Quattro giornate di Napoli, 1934年9月27日〜30日)の終わるところから始まる。ドイツ軍はすでに退却し、ナポリの街は住民蜂起で開放されていた。人々がカフェでくつろいでいるところに、アメリカ軍を中心とする連合軍が到着する。驚く兵士たちを歓迎する住民。ナポリはこうして解放軍の統治下にはいる。

マストロヤンニが演じるクルツィオ・マラパルテは、解放軍と住民の間に立つ自由イタリア軍の連絡将校であり、この映画の原作者でもある。そのマラパルテが、ヨーロッパの古都ナポリのチチェローネとなり、戦禍による悲惨のなかに生き抜く人々のリアルを案内してくれる。

金髪の下の毛をみせびらかす娼婦たち。まがいものの金髪を作り出す職人たち。捕虜のドイツ兵をグラムで売ろうとするカモッラのボス。痩せ細った兵士たちはパスタで太らせられる。グミエとよばれるモロッコ人兵士たちが、子ども市場と呼ばれる場所で母親に連れられた子どもを漁る。突然の爆撃で亡くなった女の子を連れてきた住人たちを、夕食をともにしていいた貴族たちが迎え入れると、痛ましい傷をあらい、奇妙な追悼のテーブルを仕立てあげる...

そして1944年1月6日、まるで黙示録さながらに、ヴェルヴィオ山が噴火する。噴火の最中、夫の選挙のために戦線を訪れていた将校にして女性パイロットは、軍服を着ておらずナイトドレスの姿だったが故に、味方の兵士たちまわされ、ナポリを離れてローマに向かう街道では、ひとりの男がその皮を戦車にされてしまう。

その「皮」(La pelle)こそが映画とマラパルテの原作のタイトル。もともとは「ペスト」(La peste)をタイトルに考えたいたという。なにしろ第1章のタイトルが「ペスト」であり、その書き出しは「あれはナポリのペストの日々だった」というもの。しかし、ちょうどカミュの同名小説が出たばかり。重複を避け、一文字だけ書き換えて「La pelle」としたという。

そのクルツィオ・マラパルテの『La pelle』(1950)の日本語訳、1958年(昭和33年)に岩村行雄訳で村山書店より出ているけれど、入手が難しそう。イタリア語版ならE-Bookですぐに手に入る。その「肉の赤」(le rose di carne)の章に、「皮」についての記述を見つけた。以下に訳出しておく。

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「空腹や爆撃や銃殺や収容所なんて、笑い事です、冗談みたいなもの、古くからある話です。ヨーロッパでは、何世紀も前から知られていることですよ。もはや、すっかりなれてしまった。そんなものの所為で、わたしたちがこんなに堕落したわけじゃない」

「それじゃ、いったいなにがあなた方を堕落させたのですか?」と、ギョーム将軍がすこし曇った声で言った。

「皮ですよ」

「皮?なんの皮です」とギョーム将軍が言う。

「皮ですよ」とわたしは小さな声で答えた「わたしたちの皮ですよ、この呪うべき皮です。あなたがたには想像もできないでしょうね。人間ってものが、この皮を救うために(命を救うために)、どんなに英雄的なことができるのか。そして、どんなに悪辣なことができるか。この、いかがわしい皮を、わかりますか、これを守るためにね」。そう言いながら、わたしは日本の指で手の甲の皮をなぜ、あちらこちらを引っ張ってみせた。

「かつて、空腹や拷問に苦しんだり、それほりもずっと酷い苦しみに耐えたり、人を殺したり、命を捨てたり、みずから苦しんだり誰かを苦しませたりしたのは、魂を救うためのものでした。みずからの魂だけではありません。誰かの魂を救うためでもあったのです。ところが今日では、人が苦しんだり、他人を苦しませたり、誰かを殺したり命を捨てたり、すばらしい行いがあったり、おぞましいことが起こったりするのは、自分の魂を救うためではなく、自分の皮(=命)を救うためです。みずからの魂を救うために戦い、耐え忍んでいると信じているても、実際に戦い、耐え忍ぶのは自らの皮のためであり、ただほかならぬ自らの皮だけなのです。そのほかのものにはまったく価値がない。今日では人が英雄になる理由は、じつに貧相なものなのです。じつに醜いものです。人間の皮なんて、醜いものですからね。ほらごらんなさい。悍ましいものではありませんか。今や世界にあふれる英雄たちは、こんなもののために自らの命を犠牲にしようとしているのですからね」

「すべて同じだ…(Tout de même…)とギョーム将軍が言う。

「みなさんは否定できないはずです。これ以外のすべてに比べて、今や、ヨーロッパでは、すべてが売られている。名誉、祖国、自由、正義、すべてが売れれているのです。ですから自分の子どもを得ることなんて、なんでもないことだと思っていただかなければなりません」

「あなたは正直な人だ」そうギョーム将軍が言った。「じぶんの子どもを売ったりはしない」。

「そうでしょうか」とわたしは小さな声で言った。「正直な人間であることが問題ではないのです。良い人であることになんの意味もありません。人間の正直さが問題ではないのです。ほかならぬ現代文明こそが、この神なき文明こそが、人をして、じぶんの皮にかくも大きな意味を持つと思わせているものなのです。今は、皮以外に価値のあるものはありません。確実にそこにあり、手で触れられるほどに明白で、否定のしようがないものとは、皮しかないのです。私たちが所有しているのはただそれだけ。それがわたしたちの持ち物。世界のうちにこれほど儚いもの/死すべきもの(mortale)はない。魂だけが、永遠/不死(immortale)だなんて!でも、もはや魂になんの価値があるのか。価値があるのは皮だけ。すべては人間の皮からできている。軍旗だって人間の皮からできている。名誉や自由や正義のために戦うわけじゃない。皮/命(pelle)のために戦うのです。このおぞましい皮のために」

「あなたは自分の子どもを売りませんね」と、自分の手の甲を見つめながら、ギョーム将軍が繰り返す。

「どうでしょうか」と私は言った。「もし子どもがいたとしたら、アメリカのタバコを買うために、売りにゆくでしょう。人は時代とともにあるべきなのです。卑怯者であるなら、卑怯者になりきらなければなりません」

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IV Le rose di carne 44-45 in Curzio Malaparte, "La pelle Storia e racconto", a cura di Caterina Guagni e Giorgio Pinotti, Milano Adelphi eBook, 2010.

https://www.ibs.it/pelle-ebook-curzio-malaparte/e/9788845982613


追記:
上の文章のポイントは「皮を救う salvare la propria pelle 」というのは「自分の命を救う」こと。ただし、「命」という抽象的なものではなく、それはあくまでも「皮」。虎は死んでも皮を残すけれど、人が死んで残す皮はいただけないというときの皮。この比喩が強烈。でもそれはイタリア語だからこそで、日本語にすると少し薄れる感じがしないでもない。


追記:
ゲイの出産パーティのシーン原作にはない。けれどもカヴァーニによれば全くの空想でもないという。友人から、ナポリではしばしば、結婚してからすこしたったゲイのカップルが、あのような出産パーティを行うというのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=Inljb6FO79I

音楽も印象的。これはラロ・シフリンではなく、ロベルト・デ・シモーネ(Roberto De Simone )による「Secondo coro delle lavandaie」。

いかにもナポリ。これぞナポリ。

曲はデ・シーモネのオペラ『la gatta Cenerentola』(1976)からの引用みたい。そのシーンがこれ。

https://www.youtube.com/watch?v=3k8PlqkBsxU
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