Jeffrey

心の香りのJeffreyのレビュー・感想・評価

心の香り(1992年製作の映画)
4.5
「心の香り」

〜最初に一言、超絶傑作。ここまで心象風景が美しく情叙的でまるで、別世界の光景が写し出されるかのように温かく、中華の伝統が哲理的に描かれており、家族の絆と民族の大義が仏教とともに暗示的に写し出された名作である。正に本作は古来からの文化に人の優しさを再発見できる映画であり、凝った映像スタイルや個人的な作家性を強調した第五世代の作品とは明らかに違う新しい中国映画である〜

冒頭、北方の町に住む少年。両親の離婚、お爺ちゃんの恋、その女の突然の死、そして、僕はー人南の町で知ったー番大切なもの。京劇班、落胆する事柄、弔いの費用、死、近所の少女、万引き、自然光、真夏の思い出、胡弓の名器。今、孫と祖父の葛藤が描かれる…本作は一九九二年にスン・チョウが監督した長編三作目で、祖父の元へ預けられた少年と、その土地の人々の交流を描いた大傑作で、この度VHSにて初鑑賞したが素晴らしいの一言。九十二年のモントリオール国際映画祭に正式出品され九十二年に金鶏賞最優秀監督賞と撮影賞と録音賞を受賞している。叙情を誘うカメラ、精密なセット、繊細な感性で今を描くまさに中国映画の傑作と思える一品である。一応は紀伊国屋からDVDが発売されているが高額になっており、ここまで美しい映像はBDで見たい。ぜひとも発売をしてほしい。

監督はどうやらドキュメンタリーのキャメラマンとして出発しており、テレビの国内賞の最高賞である金鷹賞を受賞した後に北京電影学院研修班で二年学び、八十六年に処女作である「コーヒーに砂糖を」(私は未見)発表して都会の若者のあてのない生き方をシャープな映像で描き、その新鮮さはこの時すでに認められていたそうだ。第五世代の旧中国を描いた強烈な作品が世界的にスポットを浴びていたため、国内的な評価に留まってしまったと言われている。徐々に発展してきている中国が当時娯楽映画に満ち溢れていた時代に、このようなアート系の国産映画を撮ったと言うことで絶賛されていたようで、原題である"心香"とは仏典の中にある言葉で、心の奥に宿る仏、心の底にある美しい信念と言う意味であり、心の奥底から線香が立ち上るような様を指しているとの事。だからなのか、この作品には線香あげるシーンがある。

それにしてもイラン映画の子供の作品を見ているかのように、単純明快なものであり、両親の離婚により北の町から南の街に住む母方の祖父の所へ預けられた少年が孫を押し付けられ不機嫌な祖父との心の葛藤の末、人生をわずかばかり悟り始めると言う少年の成長物語であり、そこに中国伝統の京劇と言う文化を入れ込み、古典文学や仏教行事等の祖父から孫への受け継ぎ的な事柄まで提供していて非常に良い。時代の流れの中にも変わらぬ庶民の生活と言うものが写し出されていた多くの人に知られてこなかった隠れた名作である。もう既に何本かの作品を監督しているチョウに撮って、自分のやり方を確立しているかのように、光と影の処理やカメラワークが圧倒的にスタイリッシュで美しかった。それと美術セットも堪らなくセンス抜群だ。前置きはこの辺にして物語を説明したいと思う。

本作は冒頭に、劇場の丸天井が見えているファースト・ショットで始まる。ここで子供の声でナレーションが始まる。初めて京劇を見た時、僕は幼かった。ママが京劇を好きかと聞くので、嫌いだと答えた…。次のカットでは、楽屋になる。役者たち、鏡に向かって化粧している。少年の声で続く、それなのに、ママは無理に芝居を習わせた。仕方がないから、僕は習った。僕が大きくなると、パパたちは僕を構わなくなった…。カメラは鏡に向かって化粧をしていた少年が隣の子役の方を見るのをとらえる。ここでまたナレーション、自分たちの離婚問題が大変で、僕のことを忘れたのだ。二人が離婚しても僕は平気だ。テレビによくある話さと続く。カットは変わり、舞台の上。京劇の派手な衣装を着た少年と京劇調のセリフ回しで見栄を切る。そしてナレーション。その方、大胆不敵。ドラが激しくなって、少年ともう一人の子役が舞台狭しと踊りまわる。

続いて、舞台裏では、少年倶楽部京劇班の演出家と少年の母親が話をしている。母親は夏休みが終わり次第、劇団に戻しますと言う。演出家は困るよ、役者不足の中で、やっと上演にこぎつけたんだ。応援してもらいたいねと言い放つ。カメラは楽屋裏で椅子に座って休んでいる少年を捉え、一人の子役が近づいてきて伝える。ママが来てるぞ、少年はどこに?と言い、少年は慌てて立ち上がる。その子役が母親のところに先導する。楽団員たちがドラと鉦で、練習をしている。そこに演出家が役者の世界のことを知っているだろうと言う。そして母親と少年は北方の駅に立ち、ベンチに少年と母親が座っているのをカメラが捉え、少年はハンチングをかぶり、荷物を手に持って、母親は、息子との別れの辛さに打ちひしがれている。見送りに来ていた父の姿を少年が見る。父親は、少年に手を振る。彼は立ち上がってリュックを肩にかけ、ホームの中央に向かう。列車が入ってくるのをカメラが固定ショットする。少年はママ、別れに涙は禁物と言うだろう。テレビでよく話してる話だ。僕、平気だよ。じゃあねと言う。そして少年は列車に乗り込み、母親は手を振って別れの挨拶を送った。汽笛が寂しそうになって、列車は行く。ここでメインタイトル、クレジットタイトルが写し出される。そして物語が進んでいくのだ…。

さて、物語は京京は、北方の町に住む十歳の少年。少年倶楽部北京班に所属する。練習嫌いだが、才能は群を抜いている。両親の別居で、彼は南方の町に住む母方のおじいちゃんに預けられた。おじいちゃんは有名な京劇俳優だったが、おばあちゃんが死んだ後この南方の町に引っ込んで年金生活を送っている。京京はおじいちゃんと会うのは初めてだった。おじいちゃんは、評判通り頑固で口うるさくて、小言ばかりだ。でも、恋人の蓮おばあさんには笑顔を見せる。京劇の女優だったおばあさんは、心信深くて川向こうの祠堂に住んでいる。京京が南の町に着いた日、おじいちゃんにとって心中穏やかではないことが起こった。徴兵されて台湾に渡った切り音信がなかったおばあさんの夫から四十年ぶりに故郷のこの町に戻ると手紙が来たのだ。翌日、おじいちゃんは京京を近くの小学校に短期入学させようとした。

しかし、彼が高学年の子と喧嘩をしたため入学は断られた。その罰で、おじいちゃんが先祖供養のお祭りで久しぶりに京劇を演じている間、京京は家に閉じ込められた。この時、彼は隣の昆さんの一人娘で同年代の珠珠と知り合った。彼女は可愛い。京京は彼女に得意の京劇の隈取りの化粧をしてあげた。その祭りの夜、おじいちゃんは酔って帰ってきた。おじいちゃんは蓮おばあさんの夫のことを考えてイライラしていたのだろう、京京の父親を叱り始めた。京京は泣きながら共同シャワー室に飛び込んだ。ただならない様子と自分のイライラした行為に後ろめたさを感じたおじいちゃんは、すすり泣く彼の背中を流しながら何があったんだと優しく尋ねた。そうすると彼はパパとママが離婚するんだ。それで僕が邪魔になったんだと泣きながら答えた。この時初めて彼は、おじいちゃんの前で素直になれた。

京京は蓮おばさんとも仲良しになった。川に上る勇壮な龍船を見に行った日、ここでおばあさんと暮らそうねと言ってくれた。その蓮おばあさんが、台湾の夫の急死を聞いて、ショックで死んでしまった。落胆したおじいちゃんは食べるものも喉を通らない。それでも、数日後、おばあさんとその夫の超度をするお金を作るために、大事にしていた胡弓の名器を売りに町へ出かけた。自分も超度の為にお金を稼ごうと思った京京は、京劇の一節を街角で歌いだした。おじいちゃんは、一目で彼の天賦の才を見抜いた。おじいちゃんは、彼を母親の元へ返そうと決心する。自分の下に置いて彼の芸を磨いてみたいとも考えたけれど、蓮おばあさんが死ぬ前に言っていたように、自分の道は自分で選ぶものだ。彼もいつかその日が来たときに…。京京は一人南の街を後に母のところへ向かうのだった…とがっつり説明するとこんな感じで、祖母と孫の心の葛藤を描きながら、古典文学や習慣の断承と庶民の生活の普遍性を巧みに演出したまさに大傑作。


いゃ〜、いきなり冒頭少年のナレーションで始まり、彼が京劇の化粧をしてゆっくりとカメラに振り向く場面はもはや男の俺でさえ恋してしまうほど美しい。その後に京劇の乱舞が写し出され圧巻のファースト・シーンで始まる。もはや冒頭の数秒間でこの作品は傑作と断定できるほどだ。そして両親が離婚して、その悲しみの報告を息子が知るのに、夜な夜な駅の列車を待つホームでその少年が気にするなと言って列車に駆け込みその後ろ姿を涙ながらに見る母親のショットの後に優しい伝統楽器の音色ととも一度フェイドアウトし本作のタイトルが真っ赤な文字で表れるのもたまらない。この監督自然光の取り方が非常にうまく、広々としたリビングでおじいちゃんと孫が読み書きをする場面での大きな3段階に分かれている扉から差し込まれる太陽光がなんとも幻想的で美しい。

そして同じく虫の鳴き声が聞こえる真夏の時期に、その少年と多分近所に住んでいるであろう少女との交流を描く場面でも鉄格子ではないが柵で閉ざされている隙間から互いに会話をする場面の温かさも凄く好きである。その少女のクローズアップも非常ににこやかで可愛らしい。少年が京劇のメイクをしてあげるんだけど、それでバレーを踊るアンバランスな感じがなんとも東洋と西洋の混じった瞬間であった。そして少年が少女の真似をしてバレーをするのをバック撮影するシーンの奥行きと音楽がなんとも印象的。そこから少年の一人称が再度話される。そしておじいちゃんに、小言を言われ(特に父親のことを言われてしまい)夜更けの中シャワーを浴びながら泣いているシーンがなんとも美しい。言葉では伝えられないほどの水のファンタジーが描かれている。おじいちゃんが泣き声に気付き、彼の体をタオルで拭きながらなだめるシーンで、パパとママは離婚して僕を捨てた、僕は行くところがないと泣きながら訴える場面は胸にくる。

その次のショットで、中国伝統の瓦屋根が頭上ショットで一瞬挟まれるのだが圧倒される。多分この映画で最もシンボリックに写し出される空間となってがあるならば、おじいちゃんと少年が普段から食事をしているリビングの窓ガラスだろう。あの独特のデザインをした窓ガラスを背景に孫と祖父がテーブルを挟んで左右に椅子に座っている正面ショットは何とも言えない印象深さがある。そして次のショットで霧かかった、あれは港でいいのだろうか、海に面したところで蓮姑(祖母的存在)が子供は両親を選べないと人生を語る場面も印象に残る。そして孫がお線香をやろうとしたときに誤って割れ物を落としてしまい割ってしまってらその場を無言で去ってしまった後に、拝み続ける蓮姑の引き目のショットもなぜだか印象的だ。

そして彼女が翌日に死んでしまい(病気で)家計に苦しんでいる祖父が大切にしている胡弓を売りに街に出ていく場面で、少年少女が後を追いかたり、ショックで食事をほとんどしない祖父を気遣って、街に出て万引きしようとして(食材を)そこの店主に頬を思いっきりぶたれたり、そういった思いをしながらやっと作ったスープも塩気が足らないと言い、ほとんど食べてくれずに、悲しむ少年の姿も印象的だ。そしてこの作品クライマックスで今までしまっていた感情が全て吹き出してしまうほど大感動する終わり方をするのだが、この映画の終わり方は私個人ものすごく好きである。なんとも美しく、孫と祖父の葛藤の苦しみから解放されたかのごとく、結集したー場面である。古船が登場する幻想的な終盤は胸にくるし、中国らしいメロドラマが垣間見れて非常に良かった。夕日に照らされ、祖父との別れ、涙する少年の成長が描かれていて心の底から素晴らしい映画だなと思えた。

余談だが、京京役を演じた少年は三百人のオーディションから選ばれた京劇舞台では数々の賞を受賞、実際の祖父、父共に胡弓の名人として知られた血筋の少年だとのこと。そして祖父役の役者には北京人民芸術院のベテラン俳優であり日本でも「赤い服の少女」「胡同模様」で知られており(私は未見)、本作の成功は彼にとっては大きい一品なのではないかと思えた。それにしてもこの慎ましい主題はなんとも美しい。祖父との間に湧いてくる肉親の愛の物語が田舎町で情感豊かに綴られる。なんだろう、仏教の慈悲の心が見えてくるような、正面切って伝えてくるような情操が見えてくる。広東の町の佇まいを細やかな感覚でフレームに収めているのも良かったし、人々の暮らしの良き趣が浸み渡る感じはやはり中国映画の多くにあるように、この作品にもあった。この監督は確か三十二歳の時に処女作である「軍人証言」の撮影を開始するが、ダビング段階で中止決定がなされ、ついに完成しなかったらしい。そもそも十三歳の従軍から足掛け十年の青年期を経て、もともと絵が上手かったらしく、軍隊に従軍した際は毛沢東の肖像画を描く仕事をしていたそうだ。


そもそも彼が映画制作をしている頃の八十九年の天安門事件以降からさらに創作活動が厳しくなったと思われるが、その中でようやく自分が撮りたかったであろう本作を撮影できたのは彼にとっては喜ばしいことだったのかもしれない。八十九年作の「血塗られた黄昏」はまだ見たことがなく、てゆうかそもそも日本にメディア化されていないと思われる。映画の感想に話を戻すと、ここまで美しい田園風景と冒頭の下りのシーンの寒々とした冬とは違って、少年がホームから列車に乗って到着する田舎町は初夏の日である。ここでいわゆる映画は二極化を提示している。母親に(捨てられた…のか)少年の寂しい冬の世界から祖父に迎えられる暖かい世界=夏と言うのだ。そしてその美意識の世界は、監督自身の理想を現実に変えたかのような力量が見てとれる。少年は孤独であった。夏の世界に移り変わっても最初は孤独である。孤独が故に、上級生の生徒たちと喧嘩をしてしまう。それを祖父は叱り、部屋に閉じ込められてしまう。ここでもまた孤独である。その孤独の少年が天井裏の隙間から下を眺めながら見たものは隣にいた踊りの上手い少女である。

やがて少年は孤独な隙間をひとつずつ丁寧に埋めていくかのように、少年の心にはあらゆる人々との接触の思い出が入り込む。川向に住んでいる優しいおばさんに始まり、隣の少女、挙句の果てには万引きをしてぶん殴られた店主でさえ、結局は品物を渡してくれた。そしてもう二度と万引きをするんじゃないと優しさが故のアドバイスを少年にくれた。それを少女はきちんと理解し、少年を一人にしようとしたときに少女が少年にもう万引きはしないでと言ったのに対し、少年は半ば逆ギレかのように、そんなことはしないと怒るのも子供らしいが、少年自身もわかっていたのだ。万引きはいけないことだとわかっていた…そしてそれをもうやらないと決めていたからこそ、少女に半ば疑われてるかの様に、言葉で万引きをしないでねと言われてショックだったのだろう。万引きをしない代わりに、どうやって稼ぐか、それで少年はクライマックスの感動的な京劇を港町で披露するのである。その映像が脳裏にこびりついて一生消えないほどの素晴らしいシークエンスであった事は、この映画を見た誰しもが口にするだろう。

暖かい人のつながりが生きる源、現実のリアルな街並み、現代を象徴する光景が目に優しい。そしてここで少しばかりに映画を見て気になったのが、広東と言えば京劇よりかは粤劇が圧倒的に有名であり、絶対的な優位を占めるものだと思われるが、監督はあえて京劇を選んだのだ。やはり京劇に中国人の歴史や伝統を象徴させようとしている試みが見てとれる。カイコーの作品も京劇を題材にしていたし…。この作品は所々に祖父が朗々と京劇の三国志の一節を口にするのが非常に印象的に残った。中国人の気骨ある生き方がその京劇に全て反映される。まさにこの映画は京劇と言うものを縦糸として扱っているのだ。この作品は色々と暗示的に描かれており、仏教徒と言う人を通して、論理間って言えばいいのだろうか、私もうまくは説明できないが、社会主義の価値観の中で生きている漢民族たちが、自分たちの失われた精神的なものを回復するために懸命に生きているような、また経済改革の波も押し寄せるこの時代に、両親が別れたと言うのは何かしらの暗示的なものを感じている。ただ男と女が別れたと言う意味合いだけではないと思う。

私はかねてから候孝賢の作品が大好きであると公言してきているが、この作品、「心の香り」も候孝賢の傑作の香りが非常に香ばしく感じた。それは清香的な清らかな香り。澄み切っていて清々しい香りである。例えばこの作品の少年と祖父を見ると「童年往事 時の流れ」の少年と祖母の姿が重なる。この自然の中でのナチュラルな台湾映画が好きで、素朴で謙虚な味わいがある侯孝賢の映画に重ねる、中国の新たな世代の波が到来した予感を与えたのは、チョウ監督の本作とフー・ピンの「双旗鎮刀客」だろう。二作とも内容は天と地の差で違うが、第五世代の張芸謀や陳凱歌とは方向性が違うのがはっきりとして分かる。だから上記の二作は今までに無かった手触り感の映画に感じるし、新鮮さがあるのだ。そしてこの作品を見ている人は多分気づくと思うが、こういったヒューマンドラマ(この作品は特に葛藤を描いている分必ず対立があっても良いのだが)を描いているが、少年はホームで会った初対面の父親とも言葉をかわさず、何か文句を言うわけでもなく、田舎の祖父の家に来ても、泣くことはしてもおじいちゃんとの対立はなかった。

ここがこの作品の珍しいところであると感じる。何が言いたいかと言うと、必ずドラマと言うものには感情的なピークを迎える場面がほどなくしてあるのだ。しかしながらこの作品には皆無である。そして説明をあえて与えていないのもかなり良かった。これに関しては、蓮胡が大事にしていた観音像を壊してしまった少年が、何も言わずに出て行ってしまったと先ほど言ったが、その後にその事柄について一切やりとりがないのだ。あえてこういった感情的なむき出しを抑えており、それこそ台湾映画のニューウェーブを想起させるかのような感触で描かれており、またこの作品を見て必ず言及しなくてはならない人工的な照明法を一切除いて、影の部分を強調させ柔らかく優しい色彩の自然光を当てているのもそれらの映画の基調としているため、やはりこの映画は全編を通して台湾映画を見ているかのように陥る。勅使河原宏監督の「砂の女」が砂のひとつぶひとつぶのファンタジー映画であるならば、この作品は自然光一つ一つのファンタジーである。

そしてこの映画を見てふと気づいたのだが、社会主義である中国の庶民たちの心の拠り所が仏教と言うのも、あたり前と言えば当たり前かもしれないが、共産党絶対とするこの国では、このような作品は検閲されたり論議を巻き起こす恐れがあるが、この作品は勇気を持ってそう作っている。そしてやはり我々日本人にとっても、本作の少年を含む周囲の人たちの生活態度の描写と言うのは、同じ仏教文化圏の人間と言うこともあって、色々となじみやすいものだなと思う。それこそ京劇と歌舞伎は中身の内容は違くても、化粧すると言う点やダイナミックな踊りは似たり寄ったりな感じもする(その二つの文化に精通してる人から言わせれば、違う!と苦情が来るかもしれないがあくまでも私個人の意見)。こんな田園の田舎町を舞台に中国文化の空気を味わえたことに喜びさえ感じるほどだ。本当に中国のあり方をこのままにしておきたくないほどである。ここまで宗教を取り入れたような中国映画を外に見たことがあまりないかもしれない。

この作品は間違いなく改めて日本で再上映するときに、ミニシアターで公開したのなら、間違いなく口コミで大ヒットするだろう。今のSNSを駆使してみんなが感想を述べる時代、瞬く間に広がると思う。この単純明快であっさりとした日常を描き出しただけで、ここまで慟哭する映画を本当に多くの人に見て欲しい。私は今回VHSを購入したが、紀伊国屋からはDVDが発売されているがかなりの高額であるため購入を止めてVHSを買った。それでもいい値段したが…。そしてレンタルされているかは、調べていないが、この映画をもっと多くの人に知って欲しい。決して大作ではない、お金をかけた映画でもない、しかし人の心を持った美しい映画である事は間違いないし、この私が保証する。私は今回この作品を初鑑賞して、少年がテーブルについて一言言う言葉がとても忘れられない。この御粥おいしいと言うセリフである。何を言いたいかはぜひ本編を見て感じ取ってほしいし察してほしい。

そしてもう一つ忘れられない台詞がある。それは蓮胡が死に際にベッドの上で、私は決して良い人生を歩めなかった。人の上に立った事も地位や権力を持つこともできなかった…そう言って少年のおじいちゃんに休みなさいと介護してもらうシーンなのだが、生まれてきて老いてゆき、そして病にかかり死んでいくと言うこのー連の流れが天命を見ているかのようで私はその場面で目頭が熱くなった。蓮胡は仏教徒であり、この映画は少なからず宗教を挟んでおるため、祖父と少年が住む家では教会によく見かけるステンドガラスのようなガラス窓が象徴的に設置されているのもこのような宗教映画の暗示を含めているのだと思う。彼女はきっと眠りながら死んでいき、来世のより良い人生を信じて天国へ行ったと思いたい自分がいる。それは映画だからそう言えるんだよと言われたら元も子もないが、平凡な人生と言うのはいいものだなと思った。それにしてもかなり昔に細木和子の番組(確かズバリ言うわよと言うタイトル)で、彼女が言っていた必ず嫁が旦那を見届けなくてはならないと言っていたが、その意味がなんとなくわかった。男と言うのは女(嫁)に先立たれると家事もしなくなるし、いわばセルフネグレクト的な感じになってしまうのは、この映画でほんの少し感じた。といっても彼女と祖父は夫婦ではないが、そのような関係の立ち位置だ。

最後に一言、監督は黒澤明やベルイマンの作品を見たりして映画はなんて素晴らしいものだと感じたそうだ。中でもヴィム・ヴェンダース監督の「パリ、テキサス」や「ベルリン天使の詩」に非常に感動したそうだ。
Jeffrey

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