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CASSHERNのotomisanのレビュー・感想・評価

CASSHERN(2004年製作の映画)
4.1
 どことなく説教染みた感じで。独特な白黒ざらざら、写真を切り張ったような、荒みも顕わな絵作りや世紀的停滞を響かせるスチームパンク的蒼古感、これらの断片に次ぐ断片のラッシュが強烈に苛立たし気な印象を高揚させてくる。そこに上乗せ「共和国」の専制的軍国的、強気ぶってるけれど人類もほぼお終いな佇まいだ。こうした作りのすべては説教を繰り出したい気分な監督の憂鬱を刻み込み擦り込んだものなのだろう。
 あとから効くのが親の説教だそうだが、のちに「キャシャーン」を名乗るようになる鉄雄においてその通り、よほど親父博士が嫌いと見え、その説教を遮るように出征し、いわれのない無差別殺人を続ける第七管区での「戦場」のありさまに説教の真意を知るが、残虐行為に加担して己がこころを枯れ果てさせてのち戦死を遂げる。
 ところが博士の研究成果+わけの分からない「いなずま」事件のせいで絶望に枯れた心を蘇らされて生き地獄、しかも超人化してしまう。自殺したって、親父曰く「また生き返る」そんな新たな苦悩まで抱えて決して解脱なんか望めまい。むしろ、あのまま死んで地獄の業火に焼かれるほうが浄めにさえなるだろうに。しかし、監督の訴える説教は鉄雄への博士のそれとは異なるメッセージ。鉄雄発、親父あて、そして、観衆あての事である。

 半世紀にわたる絶望戦争で何の奇跡も起こらないから人類もこれほどまでに衰滅してしまうのだろうが、人類自体がほぼ終局を迎えた今になってテクノロジーにセレンディピタスが二度も訪れるのが「神」それは別名「監督」というのだが、その厭味で都合のいい指金のように思える。
 そのひとつが新造人間発生を促す「いなずま」降臨であり、もう一つが「いなずま」で蘇った新造細胞研究の実験素材とされ超人化した「原初人類」4人がたどり着く正体不明のロボット基地である。いったい誰がそんなものを準備したのかと問えば「監督」が、というほかない。
 また、旧人類、後発人類の息の根を止める意図の彼ら新造人間は何の謂れで元々「原初人類」とされたのか明らかでないが後発人類たちの蔑みと羨望の的であり、今やヨーロッパ連合に代わる難敵である。しかし、後発人類のこうした昔風、科学以前な感じの観念性はナチズムにおける「アーリア」や西欧に憧れ高貴な支配者を羨望したロシア貴族らの「ワリャーグ」への憧憬なんかを拗らせ転倒させて見せた趣がある。
 こんなあたりを下敷きにさらに、冷戦が明けても、結果、世界の多極化を招き、かつてのような核大国の少数者による闇に紛れた手打ち式での世界のバランス取りが叶わなくなった時代、2004年の唯一的超大国優越を否認する多くのその他の人々が目指す価値多様、離散的傾向、さらには世界秩序を再編する意図が醸す表敬などありえない、意見交換さえ困難な状況に陥ってゆく時代性の不気味さが上乗せされる。
 しかし、それも離散を目指す彼らの固有な在り方に因った事ばかりかどうか?それを促したのも超大国、帰属国の政治的弄びや制度重視、相手の文化や意見を顧みない斉一的政策の押し付けが促したことではないか?
 当初の「キャシャーン」の70年代初頭、冷戦状態も破る人類共通の課題とされた環境破壊、公害蔓延に加え、2004年のこの話には世界戦争によるそれらの一層の増大に生物・化学・核兵器使用による各種被害と大量殺まで害毒てんこ盛りである。しかし、そうした増す一方の課題も半世紀の対敵憎悪を破る事が出来ず人類は衰え、今また新造人間による殲滅戦を招く。この成り行き自体が監督の説教の背景となっている。

 では、この殲滅戦に至る端緒となった新造細胞開発の狙いは何かというと、博士の「死」に対する抵抗にある。その実施対象の第一は博士の妻「みどり」である。博士は自身のこころの幸福のため「最愛の妻」を生かして傍らに置いておきたい。
 その技術の開発承認と予算獲得のため技術の軍事利用を提唱するが、それを認めたのは国家総帥であり、総帥が目指すのは不死による体制継続、永遠の政治的求心力である。
 近傍国の主席の多選容認の先、不死技術がまだ困難であれば例えばAI化した現主席による、通信とコンピュータを駆使した監視と統制の行き届いた「党」の永久支配で目指す世界支配、歴史に残る永久皇帝の実現、「ワリャーグ」張りな高貴な理念による雑駁蒙昧な人類の完全支配なんて話と似ていないか?
 博士の我欲、総帥の政治的意図、どちらも「私が」と唱えて他を顧みない。しかし、それ以前に共倒れの淵に落ちるまで誰にも止まらない戦争に至ること自体に「私が」「我々が」正しいと言い募り、相手を顧みなかったことが背景になかっただろうか?それを問い直せ、とするのが監督の説教である。

 しかし、それは誰もが感じつつ、その通りとさえ思いつつ、にもかかわらず相手はそうは思っていないと確信している事だろう。当の相手もまた同じ考えでいるかもしれないが、そう感じる事の矛盾を半ば、人間なんてそうした馬鹿気たものなんだと自嘲して打ち消している。
 そうでなくとも皆暮らしに忙しい。敵対的な相手からの輸入にも頼るし、友好国にもかかわらずその政治的意図の一方的な事を強烈な不快と共に受忍せざるを得ない。戦時になくともこんな矛盾して快くない事だらけだが、それでも収入の範囲に生活を収め、正反混乱な多国間関係の中で「守られ」なければ生きづらい。
 説教もその通りだが、日々の事もついて回る。どっちがうざったいかと問えばどちらとも決めが付かず、説教をまさにその通り鬱陶しく思い返すしかないのだ。
 しかし、どうでもいい事なら忘れてしまうのだが、どうでもよくない事と意識しているからこそ「説教」はこうも鬱陶しく、ともすれば腹立たしく記憶される。それを当の監督も承知している。だから、説教に留まる事を断念せざるを得ない。そして、諦めのように表明したのが鉄雄の独白、「僕たちの希望」である。新造人間ではない、現実のこの世に産まれる「新しい人」なのだ。
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