青山祐介

アンティゴネ~ソポクレスの《アンティゴネ》のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版1948年の青山祐介のレビュー・感想・評価

4.0
『純粋な言語行為、本来的に映画的な言表や音声的イメージを引き出すことは、ジャン=マリー・ストロープとダニエル・ユイレの作品の第一の様相である。…それはテクストのある種の抵抗を前提とし、それだけにいっそうこのテクストに対する敬意を、しかしまたそのつど言語行為をテクストから引き出す努力を前提とする』
ジル・ドゥルーズ「シネマ2*時間イメージ」

ダニエル・ユイレ、ジャン=マリー・ストロープ「ソポクレスの≪アンティゴネ≫のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版1948年」1992年、ドイツ/フランス映画
(Die Antigone des Sophokles nach der Hölderlinshen Übertragung für die Bühne bearbeitet von Brecht,1948. Suhrkamp Verlag.)

悲劇の娘≪アンティゴネ≫! ― その叛逆者の精神をもった娘、呪われたオイディプスの呪われた娘、不幸な父オイディプスの不幸な娘、オイディプスの性(さが)をうけついだ娘、滅びゆくオイディプス一族の王女、女という女の中でも一番そんな目に遭うべきでない娘 ― アンティゴネは自ら盲になったオイディプスの手を引いてテーバイの門を出てゆく。アンティゴネの眼はなにを見ていたのであろうか。抵抗か、服従か、憎悪か、愛か、悲しみか…「アンティゴネは自分がどうなるかを十分に知っていた」。そして、冥界の隠処へと降る身になってしまった。ソポクレスのなかで最も美しいといわれるこの悲劇には、女と男、社会と個人、政治と女、国家と家族、抵抗と秩序、血と呪い、生者と死者、神々と人間、その対立のすべてがつまっている。「偉大な悲劇は、いつの時代にも通じる共通の精神」をもっている。(ジョージ・スタイナー)
ストロープ=ユイレのこの映画は、シチリアの廃墟となったセジェスタの半円形劇場で
上演された、ドイツ実験的演劇集団であるベアリーンの劇団シャウビューネの舞台を映画化したもので、ストロープ=ユイレがはじめて手がける舞台演出である。固定された二台のカメラが、ストロープ=ユイレの思考の目となり、口となり、本来的に映画的な言表と視覚イメージを、ギリシャ悲劇の演劇的空間から引き出している。ただ、アストリート・オフナーの演技にはアンティゴネの悲劇性が欠けているのが残念だ。
映画の題名には、ソポクレス、ヘルダーリン、ブレヒトの三つのテクストが明示されているが、さらに私たちの前にはストロープ=ユイレの映像という難解なテクストが立ちはだかる。とくに、ヘルダーリンの晦渋で逐語的なドイツ語訳をテクストにして、ブレヒトが改訂をしたことは興味深い。「ヘルダーリンの翻訳は、翻訳という形式の原像である」と絶賛したベンヤミンは「翻訳者の使命」の中で次のように云う。原作と翻訳は(翻訳の言語は言葉の破片である)「ちょうどそのかけらがひとつの器(原作)の破片と認められるよう」な関係であり、「…ひとつの器のかけらを組み合わせるためには、それらのかけらは最も微細な部分に至るまで互いに合致しなければならない」、だからといって同じ形である必要はない(ベンヤミン)」のだ、と。しかし受容者の私にも大きな問題がある。そのすべてのテクストを日本語の翻訳に頼らざるを得ないという恥ずかしい問題である。翻訳によって引き出された日本語は別個の貌と性格をもつものになり、「意味が深淵から深淵へと転落し、ついには言語の底なしの深みへと失われて(ベンヤミン)」しまうように思われるからである。
これはアンティゴネの悲劇の物語ではない。アンティゴネの、クレオンの、テイレシアスの、ハイモンの、コロスの、すぐれて刺激的な「言語行為」の物語である。
音楽は、ツィンマーマンの「断頭台への行進」が冒頭に流れ、シュトックハウズンの同一和音の連打、ベルリオーズの「断頭台への行進」、ヴァグナーの「断頭台への行進」と、音楽のかけらが繰り返され、ストロープ=ユイレの音声イメージは別の形のひとつの器を形づくる。
私のアンティゴネはどこに行ってしまったのだろう。映像をみて、その場面ごとにオイディプス一族の悲劇の原像へと立ち返ってみること、私にはそれしかできないのだ。
私は、オイディプスの手を引いてテーバイの門を出るアンティゴネの瞳に湛えられていた、深い悲哀の泪を、忘れることができない。

『どうか皆さん、最近、似たような行為が私たちにあったのではないか、いや、似たような行為はなかったのではないかと、心の中をじっくりさぐって頂きたい。』
ベルトルト・ブレヒト「≪アンティゴネ≫への新しいプロローグ」1951年。
青山祐介

青山祐介