異形のフレンチ・ノワール
クールな犯罪物語ではない。
ここで起こるのは余りに稚拙で都合の良い、
計画性のない行き当たりばったりの犯罪。
それは狂気の個性派俳優パトリック・ドヴェール演じる主人公、フランクの人物像そのままだ。
空気すら薄く曇った寒々としたパリの郊外、
フランクはしがない押し売り稼業で糊口を凌ぐ、冴えない中年男。
異常に神経質な性質からか、彼が真に気を許せる人も少ない。
子は無く、家にあるのはアル中で片付けられない妻とゴミの山。
ブランコが揺れるように狂気と正気の間を忙しく行き来する彼。
抱える不満と孤独をぶつけるように、荒涼とした空き地に車を停め、デューク・エリントンのMoonlight Fiestaを背景に、滑稽なまでに踊り狂う。
先が見えず浮き上がる為の寄る瀬も無い生活。
ドン詰まりで行き場の無い彼の、唯一残されたささやかなガス抜きの儀式のように。
押し売りの為に訪れた先には因業婆、
婆の私欲の為に売春を強要される少女モナの存在を知る。
モナからのどこか不確かな信頼を得たフランクは、モナを救う為、いつしか犯罪に手を染めていく・・・。
Srie noire 連続する、黒。
そのタイトルは、何をしても・どこまで行っても最悪な彼の状況を象徴するのか。
おまけにこの物語に明らかな救いとなる人物は、ついぞ一人も登場しない。
フランクを含め、誰も彼もが自分の都合で動き、感情と欲の赴くままに行き当たりばったりに行動する。
そこは誰もまともに人生を組み立てようと試みる人が存在しない、まるでシュールな異世界のようだ。
フランクを犯罪に突き動かす動機は金であり、愛であり、孤独の解消である。
そしてその切実な願いは、クソのような現実からの逃避、飛翔だ。
一発逆転が目の前にあると思った。掴めると思った。
その何の保証もない成功への杜撰なプロットが汚れるたびに、我々は暗澹たる気持ちを味わうことになる。
人間とは、こんなにも愚かで、哀れなのかと。
ジム・トンプソン作「死ぬほどいい女」を原作にその舞台をパリに置き換えた作品。
早世の天才、パトリック・ドヴェールの本作での演技は、その好き嫌いは分かれるところだと思うが、圧巻であることに間違いはない。
彼はこの作品から数年後、謎のライフル自殺を遂げる。
モナを演じたのは、ジャン=ルイ・トランティニャンの娘、マリー・トランティニャン。
その美しくも儚い容姿と一糸纏わぬ裸体のアンバランスさは、何か見てはいけないものを見せられているようだ。
その彼女も後年、不幸な横死を遂げる。
今般本作を観る人は、本作が持つ本来の鬱々としたカラーに加え、この不幸なバックグラウンドをどうしても意識せずにはいられないだろう。
パトリック・ドヴェールがもし生きていたなら、今の映画界の地図も少し変わっていたのかな・・・そんなこともぼんやりと考える。