YasujiOshiba

五人の札つき娘のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

五人の札つき娘(1960年製作の映画)
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イタリア版DVD。字幕なし。23-175。マンガノ祭り。

マンガノ祭り。これもイタリアから取り寄せたDVDでみごとな戦争映画。娯楽作といえば娯楽。でもその精神は反戦。しかもただの反戦ではない。

ドイツ兵のすべてが悪ではないと訴えながら、敵はどこまでも敵であって、そのなに良い悪いの区別はできないという現実もつきつける。そもそもこのドイツ兵、ウーゴ・ピッロの原作ではイタリア兵だったという。

原作は未読だけど、イタリア人もまたドイツと同じ占領軍であったことは確かだり、そんな思い出したくない記憶を描いた小説。思い出したくないのは、占領軍の兵士と寝た同胞の女たちの性。「寝る」なんて言葉ではなく「fraternizzare」というのも興味深い。

マンガノの演じるジョヴァンカは、そのどこが悪いのだと訴えているのだから。戦争して人を殺すのは恥ずかしいことだけど、愛し合うのは恥ずかしいことじゃない。これはすごい。戦争の中で愛の称揚しながら、機関銃をぶっ放すのだから、マンガノの魅力炸裂なのだ。

そんなマンガノの両極に、女たらしの憎々しいドイツ人ケラー(スティーブ・フォレスト)と、優しい哲学教授の将校ラインハルト(リチャード・ベースハート)を配置、彼女の傍にはその髪を無慈悲に切ったパルチザンの厳しく勇敢な指導者ヴェルコ(ヴァン・ヘフリン)。

ラストシーンにこれまた目頭が熱くなってしまったのは、なぜだか今、時代がぐるりと回って映画と同じ場所に出てきてしまっているから。まったく... みんなもっと映画を見よう。本を読もう。そして愛し合おうぜ!

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以下、あらすじ。

原作はウーゴ・ピッロの『Jovanka e le altre』。時は1943年、独軍占領下のユーゴ西北部のある町。原作小説では占領軍はイタリア人だが、映画版では検閲を避けて、プロットを修正。占領軍はドイツ軍とされている。

その町で、ドイツ軍ケラー軍曹が街の女たちと次々と関係を持つ。 相手はジョバンカ(シルバーナ・マンガノ)、ダニーザ(ヴェラ・マイルズ)、マーヤ(バーバラ・B・ゲデス)、リューバ(ジャンヌ・モロー)、ミーラ(ハリー・ガーディノ)の5人。

ジョヴァンカは戦争を憎み恋に生きるため。リューバは兄弟を助けるため。マーヤはドイツ人のように背の高い子供を授かるためと、それぞれに理由がある。

しかし占領軍のドイツと通じた女をパルチザンは許さない。ケラー軍曹とジョヴァンカとの夜の逢瀬を襲うと、ブランコ(ハリー・グアルディーノ)はドイツ軍曹を去勢。ベルコ(ヴァン・ヘフリン)たちは、見せしめに女たちの髪を切り坊主にして辱める。

ドイツ軍は、丸坊主の女たちにパルチザンの名を明かすように言うが、彼女らは口をひらかない。街に置いておくこともできないからと、町を追放されてしまう。

5人は山野を放浪、倒れたドイツ兵から靴、服、そして武器を奪い、彼女らを襲ってきた親ドイツのユーゴ兵を殺す。山の放浪に慣れてきた彼女たちは川で水浴をする。そこでミーラ(カルラ・グラヴィーナ)がドイツ軍曹の子供を宿していることが発覚。そんな彼女らを、パルチザンのブランコが山から見かけて近づこうとする。ひとりになったジョバンカを襲うが、仲間たちに助けら、自分を襲ったブランコを機関銃で追い払う。

その後、村を襲ったドイツ軍たちの残酷な仕打ちに、ジョバンナと女たちはドイツ軍の一隊と襲撃する。幸い、同じところでパルチザンの小隊も待ち伏せしていた。女たちはパルチザンと協力してドイツ軍を追い払う。そのとき、リューバは将校ラインハルト大尉(リチャード・ベースハート)を捕虜にする。

こうして女たちはパルチザンと合流することになる。ドイツ兵と姦通した女たちだったが、その戦いぶりが認められたのだ。一隊には、ブランコがいる。女たちの髪を切ったヴェルコがいる。そのヴェルコは次第にジョヴァンカに惹かれ、ブランコはダニーザ(ヴェラ・マイルズ)に惹かれるのだが、パルチザンにおいては男女の関係は御法度。ブランコとダニーザはしかし、見張を怠って愛を交わしてしまう。運悪くドイツ斥候がやってきて銃撃戦。見張りを怠ったこと、御法度を破ったことで、挙手による裁判で、ジョヴァンカたちは反対したものの少数派にとどまり、銃殺となる。

一方、リューバが捕虜の独軍大尉との間に心を通わせ始めるとき、ミーラの陣痛が始まり赤子を出産。そのころ、パルチザンは故郷の町を攻撃を計画。ドイツ建国10周年記念の祭典の最中を襲う準備を進める。そのころラインハルト大尉は自分の上官が捕虜の交換に応じないと確信し、隙を見て逃げ出す。後ろからリューバが射殺。

パルチザンの襲撃は成功するが、独軍の山狩が始まり、隠れ家を捨てることになる。安全な場所に移るため、険しい雪の山道を行くことになるが、独軍の部隊に迫ってくる。このままだと追いつかれると悟ったヴェルコは、敵の進撃を遅らせるため機関銃を構えてその場にとどまると申しでる。ジョバンカも残ると言う。機関銃には二人必要なのだ。

迫る独兵の一段、機関銃を構えるふたり。はたして敵をどこまで食い止められるのか。ジョヴァンナがたずねる。

- 敵までの距離は?
- およそ1キロだ。300メートルまで来たら撃つ。
- 食い止めることができるの?
- 少しのあいだは...

そうなのだ。ヴェルコは自分たちの犠牲が、ほんの僅かの時間稼ぎでしかないことを知っている。その僅かの時間のために命をかける。だからジョヴァンカが応じる。

- ああ、あそこで永遠に食い止めることができたら。そうすれば、すべての戦争を食い止められる。それともすべては無駄かしら。平和なんて来ないのかしら。だって人間は(gli uomini:「男たち」という意味でもある )決して変わらないから。
- きみは変わったじゃないか、ジョヴァンカ。ぼくも変わった。時間がたてば人間(gli uomini)は変わるはず。
- ヴェルコ、言っちょうだい、信じてるって。
- ああ信じてるさ。ぼくらは信じなきゃならない。わかるかい。

ふたりは機関銃をドイツ兵に向ける。ジュゼッペ・ロトゥンノのカメラは切り返して、山を登ってくる兵列をとらえると、そのままゆっくりとパンして凍った山の斜面から、そのいただきを捉える。はたしてその向こうの世界で、人は変わることができるのだろうか。人が変わることによって希望が生まれるのだろうか。

映画が公開されたのは1960年。戦後15年にして、あのときの記憶とともに、あのとき抱いた「時とともに人は変わる」という希望を呼び起こすラスト。ぼくが生まれたのはその翌年。それから60年以上が経つ。

けれども、とてもじゃないけれど、ぼくには「人は変わる」なんて言えやしない。たしかに変わった人もいる。変わった男たちもいる。けれども総じて、人は変わらない。男たちも変わらない。人の犯す過ちも変わらない。いやむしろ、ますますタチが悪くなってゆくようだ。

ラストの山のいただきを眺めながら思う。それでも誰かが決死の覚悟で中腹に踏みとどまり、軍靴の響きを食い止めようとしているはずだと。たとえその誰かになれなくても、その誰かのために、なにができるはずだと。あるいは、その誰かの思いをつなげる言葉がはるはずだと。それを探したい。そう思うのだ。
YasujiOshiba

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