映画漬廃人伊波興一

愛と殺意の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

愛と殺意(1950年製作の映画)
3.8
例え99.5%の作品系譜を凌駕していたとしても処女作を無視すればその作家との関係は永遠に抽象的なままなのである。

ミケランジェロ・アントニーオニ
「愛と殺意」

自分が生まれる遥か以前に活躍していた映画作家に惚れ込んでしまった時、誰しもがその処女作を意識してしまうと思います。

そしてその処女作を私たちはどのように捉えて形容してきたのか。

ある人に言わせれば処女作こそが(最高傑作)であるそうです。
あるいは処女作こそが(臨界点)であり、また処女作こそが(集大成)であるそうです。

確かに全作品系譜を見渡してとうとう処女作を超える作品を撮りあげないまま生涯を終えた作家は多数います。

ただいま現役活動中の作家に於いても、せっかく豊かな才能に恵まれているのに資質とかけ離れた国際的な名声などを無闇に浴びたばかりに新作を発表するたびに処女作を否定するように貧しく痩せこけていく作家だって存在すると思います。

一方で巨匠の名を残して逝去した中にも実は惨憺たる評価の処女作から出発した作家だって多数存在した筈です。

この「愛と殺意」はミケランジェロ・アントニーオニの劇映画処女作として通っていますが上記のように(最高傑作)でもないし、(臨界点)にも辿り着いているわけでもないし(集大成)であるわけがありません。

また彼は生涯を通してこの「愛と殺意」以上の作品を何作も連発してますし、国際映画祭の名声が必ずしも資質とかけ離れていたとも思えません。

ですがやはり「愛と殺意」を、これこそ(処女作)だ、と思わず唸りたくなるのは新人アントニーオニ監督の才能の問題とか、若さゆえの感受性の問題ではありません。

僥倖としかいいようがない青年監督アントニーオニとフィルムの生々しい完璧な出会いにより、アントニーオニは作品を重ねる度に(映画作家)として熟成されていったわけでなく、第一作「愛と殺意」から既に充分過ぎるほど(映画作家)であったのだ、と私たちの瞳を震わせてくれる点に思わず唸ってしまうのです。

アントニーオニはこの後「愛と殺意」を遥かに超える傑作を連発していますがこうした遭遇はこの作家の身の上には二度と発生していないと思う。

例え99.5%のアントニーオニ作品を凌駕していたとしても処女作「愛と殺意」を無視すればアントニーオニとの関係は永遠に抽象的なままになってしまう気がするのです。