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サルトルとボーヴォワール 哲学と愛のkuuのレビュー・感想・評価

2.9
『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』
原題 Les amants du Flore.
製作年 2006年。上映時間 105分。
事実上の夫婦として公私にわたり影響を与えあった哲学者ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーボワールの知られざる愛憎の軌跡を描いたドラマ。
ボーボワール役にアナ・ムグラリス。

1929年、パリ大学で出会ったサルトルとボーボワールはひかれ合い、大学を卒業後に共同生活を始める。
サルトルは互いに愛し合いながらも、他の関係も認め合うという自由恋愛を提案。結婚か独身しか女性に選択肢のない社会に疑問を抱いていたボーボワールは、その提案を受け入れるが。。。

アナ・ムグラリスは今作品の主役。
彼女が演じるのはシモーヌ・ド・ボーボワール。
同世代の哲学者たちの輪から飛び出した知的な女史。
アナ・ムグラリスは、どの作品に登場しても興味深い存在で、ダークな美しさ、そして、それに見合う強さを持っているとよく感じます。
ロラン・ドイチェは、ムガリスと同じレベルには残念ながら感じなかった。
実際のサルトルよか数百倍イケメンやけど、彼のサルトルはあまり説得力がなかったというか、監督の観念がそうさせるんかな。
フランス文学の最も重要なこの二人。
ジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールをもっとよく知りたいと思うのなら、どこか他の場所を探した方がいいかもしれません。
今作品は、テレビ用に作られたもので、それがよく表れています。
イラン・デュラン・コーエン監督は、サルトルとド・ボーヴォワールが哲学として打ち立てたものに対する認識に基づいて、彼らの世代とそれに続く世代の人生の見方のために影響を与えた前世紀半ばの最も有名な二人の人物に敬意を表しているのは感じられた。
しかし、今作品で最も残念なのは、ジャン・ポール・サルトルのキャラ設定。
彼は、女子を寝取るのは好きやけど、ド・ボーヴォワールとは性的な関係を持てないと云うし、おっちょこちょいな人物であると描かれてる。
サルトルはボーヴォワールとの関係は
『必然の関係』であると云い切っており、それ以外の女性たちとの関係は、
『偶然の関係』としていた。
ボーヴォワールに対して『君との関係は必然だ。 けど、偶然の関係も知っておかなくちゃいけない』二人は、どちらも性的関係を縛り合うことなく、オープンでいようと約束し互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶として生きた。
信じがたいがボーヴォワールだけならあり得るかな。
サルトル自身が生きてて、今作品を観たのなら、物語の解釈や表現にはおそらく満足していなかったに違いない。
一方、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは別の話で、彼女は、社会における女性の役割に関心を持つ学者であった。
アナ・ムグラリスがとにかく美しくファッションも素敵な映画として見たら悪くはなかったかな。

ボーヴォワール 哲学と愛、徒然に。
『人間は自らの真実のなかにいる。だがこの真実は、絶えず開始され絶えず停止される闘争の真実であり、一刻も休まず自己を乗り越えることを人間に要求する』
これがボーヴォワールの自己『自分らしく』ってのの観点。
小生もご多分に漏れず自分探しってのをした時期がある。
京都から九州ぐるりと一周し、山口県でゼニと精魂つきた。
途中九州のあちこちで数ヶ月逗留し、天職とは、あるいは使命だったりと上辺では喚いてたが、ある意味人生から逃げてただけやったと思う。
本当の自分だったりそんなものを求める心理だけど、歳を重ねても、この先も全てはわかり得ない。
一時期 流行したこないなフレーズも、死語に近いのかもしれないし、最近の若者はシビアに自分探しはNGちゅうフェーズに入ったような気がする。
せや、自分らしくは、相変もわらず本屋にはそないな類いの書籍が並び人気がある。
『ありのままにの美しさ』なんてのはさらに高い人気を保ってる。
しかし、『ありのまま』なんてモンを超越してGOサインを出し行け~って激励しとんのが、哲学者ボーヴォワールと個人的に理解してる。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールの主著『第二の性』と云やぁ、
『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』
とこのフレーズ。
彼女の考えを伝えるにはこの一節を欠くことはない。
『NHK100分で名著』でも云ってた。
このフレーズをまるでCEOのように旗頭にした女性解放運動の牽引者というイメージが強いボ ヴォワール女史。
今作品のサルトル役は、論争により袂を分けたAカミュとは正反対の醜男。
彼も自認する容姿とははかけ離れた美男子のロラン・ドイチェ。
ここはリアリティーに欠け嘘臭い。
だが、ボーヴォワールは、本作品の女優アナ・ムグラリスに勝るとも劣らない(いや、それは云い過ぎかな)美人だったんはたしか。
アナ・ムグラリスはボーヴォワールマッチしてる。
一般的には(タイトルでも)サルトルによりスポットライトが当てられているように受け取られるが、内容自体は、あくまでもボーヴォワールとサルトルになる。
サルトルは脇役やし醜男のままでよかったやん。
ちなみに原題は"Les Amants du Flore."
『フロールの恋人たち』。
『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』と彼女は云う
このことは次のように解説されている。
〈女らしい〉女の基本的特徴と見なされる受動性は、ごく幼い頃から、女の中で培われる特徴である。
しかしそれを生物学的条件であると主張するのは間違いである。
実際にはそれは教育に当たる者たちや社会から押しつけられる運命なのだと。
現代の重要テーマの一つジェンダーはここから始まる。
セックスは生物学的条件であり、ジェンダーは社会から押しつけられる運命。
この理論がボーヴォワール=フェミニストという紋切り型の拠りどころやけど、彼女はフェミニ ストでもないし、反フェミニストでもないと個人的に思てる。
何よりも実存の哲学者やと思う。 
彼女は女性解放を先導するんではなく、女子たちを揺さぶり目覚めさせるだけ。
それは同時に、知性ある男たちを動揺させることにもなる。
ボーヴォワールとサルトルには、その関係から推測できるように共有概念が多い。
まさに切っても切れない仲やけど、哲学的視点やメッセージの重みに性差が現れるのは自然なことかな。
女性社会的状況や結婚などの男女関係への洞察力は当代随一と云っても過言じゃない。
その例が
『自己疎外』や『所有』。
女性であるボーヴォワールにとって、自己疎外は社会が要請する女の疎外であり、所有は男による女子の所有。
自己疎外てのは、自己以外のもの、つまり女子にとっては野郎に隷属すること。
このような隷属を自ら望む女子はほとんどいないとは思う。
思いたい。
しかし、社会は無自覚に女子をモノ化させてしまう傾向は未だにある。
女子が自由を望むとき、女を捨てなければならない。
これが 『第二の性』の核心かな。
女らしさがあれば男らしさも当然あるはず。
せや、ボーヴォワールは
『〈女〉 一般を語るのは、永遠の<男>を語るのと同じように無意味』と述べてる。
そして二つの『らしさ』てのは、
自分らしさや人間らしさに結びつく。
『第二の性』の大半は『女』の解明に充てられる。
人間が人間であるゆえんは、自己の自由から逃げず、絶えず自己を超えていかなければならない。哲学内での『超越』には様々な意味があるとは思うが、実存の哲学においては『自己を超えていくこと』を意味する。
『超越』とセットの概念が『内在』であり、こち らはモノ化してしまった自己に留まっていること。
我々が女であるにせよ、男であるにせよ、
『らしさ』ちゅう安定に留まある限り自己実現はおぼつかない。
不安は自由の証なのだのやと。
彼女は
『人間は二つの方法で世界に現存している。
人間はモノである。他人の超越性に追い越される与件だ。 そしてまた人間は、自分自身が未来に向かって身を投げる超越性でもある』 
と要約してる。
また、
『人間は不安を通じて自分が遺棄されたと感じる。自分の自由、主体性から逃れて [中略] モノとして固定されたいと思うのだ』
常に自己を超越し続ける人間にのみ、自己について語ることが許される。
そして自己なるものは、先んじて求められはしな い。
後になってようやくわかるのだと。
仮に、ボーヴォワールの叱咤によって全ての女子が覚醒したら、事態は反転する。
つまり、男のほうが女子に依存するようになるやろう。 
いや、現実に、もう野郎どもはそうなりつつある。
でも、それってのは一方的なラブコールに止まる依存やと思う。
真に憐れなるは野郎のほう。
『女は、男が肉体的に所有できる、自分とは異なる姿をした自分自身の神格化であるから、男にとって最高の褒賞なのだ』
とボーヴォワールは続ける。
いずれ、女子たちが自己超越する時代になる。
そのとき、野郎たちは何を所有できるだろうか。 『神格化した女』を、生身の人間ではなく『モノ』に見出す野郎ども。
彼らははたしてどのように自己を超越して行くだろうか。
『独りで自己を実現できない人間は、同類との関係において絶えず危機的状態にある』
もしかしたら、いずれどこかで男向けの『第二の性』が希求されるかもしれない。。。
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