YasujiOshiba

暗黒街の紋章/マフィアに血は生きるのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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イタリア版DVD。23-123。カルディナーレ祭り。これはすごい。映画もすごいがカルディナーレもすごい。この演技を見なければカルディナーレは語れない。

この傑作で、CCはパスクワーレ・スクイティエーリと出会う。クレジットにはヴィデス社も見えるが、このころCCはフランコ・クリスタルディとは精神的に離れていた。「生活のすべてが言いなり、すべてが計画どおり、合理的で合理化されている」ことにうんざりしていたのだ。

そんなカルディナーレに、『殺しのギャンブル(Camorra)』(1972)をヒットさせたナポリの監督のこの映画の企画が持ち込まれる。公開は1974年。翌年の1975年にCCはクリスタルディとヴィデス社による公私にわたる拘束から自由になって、NYのナポリ人のもとに飛ぶ。「人生で唯一愛した男」(l’unico uomo della mia vita)のもとへ。

舞台は19世紀末のナポリ。統一イタリアが1970年にローマを首都にしてからまだ数十年。ナポリの治安を守ってきたのはカモッラ。「名誉ある結社 onorata società」に属するものたちは「グワッポ Guappo」と呼ばれた。語源はスペイン語の「guapo」(ハンサムな、魅力的な)から来たもの。それが「勇気がある、侠気がある」という意味に転じて、地域のボスのことを指すようになる。映画のタイトル「i guappi」はその複数形だ。

主人公はそんな「グワッピ」たち三人。ひとりは若いころ「赤いベレー帽](Coppola Rossa)のあだ名で知られたニコーラ(フランコ・ネーロ)。矯正施設に入れられて反省し、勉強して弁護士になろうとするのだが、新たにやってきた地区でその地区を仕切るグワッポ、ドン・ガエターノ(ファビオ・テスティ)とぶつかることになる。

このドン・ガエターノの「グワッポ」ぶりがこの映画の眼目。見た目のカッコよさ。侠気があり、恐ろしく、勇気もある。誰もが一目おく存在として、まさにグワッポとはどういう存在なのかをみごとに映像化してくれている。

カルディナーレが演じるルチーア・エスポジトは、そんなガエターノの愛人なのだが、彼女がまたじつに「男前」。ガエターノの勝手ぶりに怯むことなく、毅然として立ち向かう。ビンタを貼られても睨み返す。睨み返すのだけど、その目は惚れた男を見つめる目でもある。そんな目ができるカルディナーレがすごい。

監督のスクイティエーリの厳しい演技指導があったという。それはそうだ。彼は生粋のナポリ人。本物のグワッポの世界で育った男であり、だからこそ「名誉ある結社」の厳しさ、人間味、深さ、残酷さのリアルを知っている。そしてそのリアルをカルデイナーレを通して表現しようというのだから、厳しくもなろうというもの。おそらくは、チュニジアから来てスターに祭り上げられたCCが惚れたのは、そんなリアルを生きて表現するところだったのかもしれない。

もうひとつカモッラ(Camorra )という言葉についても、この映画はそれを映像で表現してくれているのだが、それはニコーラとガエターノが出会うシーン。初めての土地で金もないニコーラ、勉強しようにも金がない。稼ぎを上げるために思いつくのがモッラ(morra)という賭け事。これは相手とさしで行うジャンケンのようなもので、自分の片手で出した数と相手が出した数の合計を当てた方が賭け金を持っていく。道具も何もいらない。少しの金があれば始められる。日本ならサイコロと茶碗で丁半を賭けるチンチロリン。統一イタリアでは禁じられたというが、ナポリではこのモッラを仕切るのが「カモッラ」(ca-morra)。それは「共に ca/con」「モッラ morra」をするという意味だとも言われている。

さてこの映画に出てくるもうひとりのグワッポが、ナポリの治安長官アイオッサ(レイモン・ペルグラン)。「治安長官」と訳しておいたけれど、イタリア語は「delegato di pubblica sicurezza」で中央政府から治安を守る職務を委託された代理人のこと。実はアイオッサもまた、もとはナポリのグワッポであり、イタリア王国政府はそんなグワッポに町の治安維持の責務を託したというわけなのだ。まさにヤクザのことはヤクザに任せる。どこの国も近代化の過程で同じ道をたどるのかもしれない。権力(potere)とは暴力装置(potere)なのだ。

こうして三人のグワッポが出揃った。ニコーラは近代国家の法(legge)に通じた弁護士となり、アイオッサは権力(potere)の権化となり、前近代的なグワッポを生きるガエターノはナポリの民(popolo)とともに「名誉ある社会」(onorata società)を生きようとする。

しかし、グワッポに名誉ある男として生きようとするガエターノは、治安長官アイオッサにその侠気を逆手にとられる。この権力者はルチーア/クラウディアを呼び出して強姦する。自分の女を強姦された男は、その名誉を回復せねばならない。だからきっと復讐に来る。その瞬間を捉えて、殺人未遂で終身刑にしてしまおうとする。

案の定、復讐に来たガエターノは逮捕され、拷問によってカモッラの組織の名前を告白せよと迫られる。黙秘を続けるガエターノだが、別件で呼ばれた組織に近い男がすべてを話してしまう。古い自治組織もその伝統もそれで終わりかと思われたとき、ニコーラが弁護人となって登場する。ガエターノの援助で、今は弁護士となっていたのだ。

ニコーラは弁護のためにルチーアに助けを求める。長官に犯されたと証言してほしいというのだ。その証言があれば、ガエターノの罪は酌量される。じぶんの女の姦通に逆上して相手の男を襲うのならば、組織犯罪ではない。たんなる復讐であり、しかも旧憲法ではその罪は酌量される。

しかし、ルチーアの名誉は損なわれる。そのためもあってガエターノは黙秘してきたのだ。組織を守り、自分の女を守るための黙秘。ルチャーナが証言すれば、組織は守られるが、彼女の名誉は損なわれる。名誉を損なれた女は、その男の名誉を損ねたことになる。出獄するとき、グワッポたるガエターノは自分の名誉を回復しなければならない。名誉をとるか。それとも愛情をとるか。

名誉ある社会をよく知る弁護士ニコーラは、ナポリの人々やグワッポたちは、名誉だけではなく、愛情の大切さだってわかるはずだと言う。果たして本当にそうなのか。

出獄のシーンは出色の出来。ガエターノの子分たちが出口で待ち構える。遠くにはルチーア/クラウディアが待っている。子分たちが囁いている。ドン・ガエターノは許さないだろうな。扉が開く。ガエターノが出てくる。まるで花嫁のような白装束に身を包んだルチーア。手にしていたナイフを差し出す。それはガエターノが名誉の回復のために使うもの。子分たちが目を背ける。グワッポならば女を刺さなければならない。
しかし、ガエターノは掟に背く。それが1回目。

さらに、もうひとつ掟に背くことになる。友人であり、グワッポの名誉を救ってくれた弁護士ニコーラを殺せと命じられたにもかかわらず、それを拒否したのだ。なぜニコーラを殺さなければならないのか。カモッラの名前を治安長官に密告した男が原因。ガエターノが殺そうとしていたその男は、ニコーラの元に逃げ込んで命乞いをする。憎むべき相手だが、ニコーラは法曹界の人間として殺しを認めるわけにはゆかない。だから、追いかけてきたガエターノに男の引き渡しを拒否する。グワッポらしい筋の通し方だとガエターノも引き下がる。組織の命令よりも、侠気ある友情を選だのだが、組織には理解されない。ニコーラを裏切りものと考える組織が、ガエターノにその殺害を命じたと言うわけだ。

こうして、ガエターノは組織から消されることになる。同時に、ニコーラも命を狙われる。ラストシーンは悲しくてやってられない。あろうことかそれが起こるのは、可愛がっていたチンピラ少年の弁護をして、ナポリの子供たちに犯罪者になる以外の未来を与えることができない政府を糾弾する演説をしたその直後のこと。このラストは強烈だ。

カメラは倒れゆくニコーラから少しずつ離れてゆき、まるで抜け出した魂のように、ナポリの通りを彷徨うと、その眼差しが捉えるのは、時間を超えた現代のナポリの若者たちの姿。そこでエンドクレジット。

しかし物語は、スクイティエーリのカモッラ三部作の3作目『L'ambizioso(傷だらけの帝王)』(1975)へと続くことになる。

追記:
ぼくはナポリのことはずっと気になっている。だからというのもあるかもしれない。この映画はすとんと腑に落ちた。なんといっても映画としてすばらしい。

ただし「暗黒街の紋章/マフィアに血は生きる」というタイトルはいただけない。まあVHSスルーだから仕方ないところある。だいたいアフィアとカモッラは違うし...

こういうのを告発映画(film di denuncia )とか言うことがある。でも、そんな映画はない。よくできた作品は作品としてよくできているだけ。挑発的で何かを告発するように見えても、告発するために撮られたわけじゃない。でも作品に触れた人が、その作品を通して、なんらかの告発を読み取ることはしばしば起こる。この映画もそういう作品なのだ。
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一方で、ナポリのカモッラを美化していると見えるかもしれない。そういう見方もできないことはない。たしかに「グワッポ」(guappo)は美しく、エレガントなこと。たしかシチリアのマフィアも「際立っている」という意味があったと言われている。日本の任侠もそう。でも、それは美化ではない。何かの魅力を描くことは、その堕落を描くことと裏腹。およそ人間的なものに堕落しないものはない。

いつかは堕落する。けれどもなんとか止まっている。だから美しい。そいう美しさから物語が立ち上がる。そういう意味でパスクワーレ・スクイティエーリはみごとにカモッラの世界を撮っていると思う。
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