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13回の新月のある年にのtntnのレビュー・感想・評価

13回の新月のある年に(1978年製作の映画)
5.0
再鑑賞
視線の演出は勿論、映画としての演出は今作が一番見応えがあった。
ただ、トランス女性を巡る表象については、時代の限界を感じる。
レプリゼントしたこと自体の意義と、激しく傷つき、連帯する人を失うというキャラクター設定自体の問題。
ただ、エルヴィラ自身が繰り返し自分の意思で誰かに言葉を投げかけ、その様子をしっかりクローズアップで捉えるのは良いと思った。確かに、それに答える人が誰もいないし、あとエルヴィラの言葉と映像がズレる(映像から消える)演出も多いが、エルヴィラの主体性は確保されている。
シスターとの会話において、エルヴィラにとっての「過去」が主題となるけど、この箇所については現代も参照可能だと思う。



1978年にしてトランス女性の生を、物語の中心に据えて描くことは凄いと思った。
ただ、例えばエルヴィラが他のマイノリティ達と連帯できる瞬間は、ほんの一瞬(娼婦ツォラ、ゲイ男性と蝋燭のある部屋で過ごすあのひと時、寝室で眠るエルヴィラとテレビを見るツォラの場面)しかない。
また、終盤で明らかにやる「普通」の家族になれないという悲劇自体が、極めて異性愛や家族中心主義を前提にしているとも言えるので、時代の限界も感じる。
エルヴィラは、男装をする展開も多い。(オープニングと終盤)。ここで彼女には、周囲から「男」あるいは「女」として認識されることへの問題意識が常にある。(「パス」の問題?)
それは、アイデンティティは揺らぐ展開とも言えるし、主体という幻想を攪乱するような展開とも思うのだが、やはり悲劇に終わる。シスターが語る「あなたが生きづらいのは、社会のせいよ」という言葉からジェンダー規範への視点も垣間見えるが、この場面は幼少期の思い出を掘り起こされたエルヴィラが失神することで終わる。
また、ボイスオーバーとナラティヴが非常に多い。流石に多くて全部が頭に入ってきたわけではないが、概して「ここにはいない誰か」「ここではないどこか」「今ではないいつか」について、今ここにいる人が語るという要素がある。ラストは「ここにいる人に向けて」ここにいない人が語り始めるという反転がある。
あるいは、ファスビンダー自身が出てくるニュース映像や、屠殺シーンに被さるエルヴィラの絶叫など、単純に印象的なボイスオーバーもある。
アントン・ザイの場面のホモソーシャル性。(全員がネクタイをして、テニスボールを持つアントンと、エレヴィラとの対比。さらに、ここでアントンの幼稚性が描かれることで、男性性という虚構も暴かれる)。
『不安と魂』に引き続き、エレヴィラは様々な人物から「見られる」存在であるが、同時に彼女の表情のクローズアップもあり、彼女が何かを主体的に「見る」展開も少なくない。
自殺という否定的行為に意味を価値づけする場面が唯一クィア的と読めるか。
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