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デイジー・ミラーのodyssのレビュー・感想・評価

デイジー・ミラー(1974年製作の映画)
3.0
【受け取り方がむずかしい】

ヘンリー・ジェームズの原作は、むかし、学生時代に英語の勉強をしようと原書で読みました。そのペーパーバックの表紙に、この映画の一場面が使われていたのを覚えています。小説の内容はおおかた忘れてしまったのに、表紙を飾るヒロイン(シビル・シェパード)の姿は覚えているのですから、人間のイメージの記憶力はバカにならないなと痛感します。

それはさておき、肝心の映画のほうは見る機会がなかったものが、NHKがBSで放送してくれたので、録画して見ることができました。原書で読んでから40年ほどになります。

さて、この映画ですが、ヒロインをどう受け取るかが難しいと思いました。
機械的に解釈するなら、新世界のアメリカで育った若い娘の自由気ままな行動を、旧世界であるヨーロッパの社交界(だから基本的に中流上層以上ですよね)の人間は不道徳と捉え、双方の対立のうちに・・・となるわけですけど、でもそう受け取っていいのかな、と首をひねりました。

というのは、いくら新世界アメリカの若い娘にしても、本作品でのヒロインの行動は奔放すぎるからです。男女間の交際だとか友だち関係には、同性同士の友人関係と違うところがあるのは当たり前なのであって、その辺を無視したヒロインの振る舞いは、ヨーロッパの上流人士とは無縁な私でも、ちょっとどうかと思えてしまうのです。

そういう違和感は原作に根ざしているのだと思う。映画のせいではなく。

実際、この映画ではヒロインと付き合っていたイタリア人男性が、結婚したかったけど無理だと分かっていた、と述べています。つまり、お相手の男性側にはその気があった。だけどヒロインにはその気がなかった。

ここに見て取れるのは、ヒロインの無邪気さというか、残酷さでしょう。

また、なぜイタリア人男性が無理だと思ったのかというと、おそらく階級差からでしょうね。

新世界アメリカには建前としては階級はないことになっていますが、実際にはちゃんと存在します。この映画のヒロインは母親および弟と一緒に長期間ヨーロッパに滞在して遊び歩いている。それを許すだけの裕福な家庭のお嬢さんということでしょう。他方、イタリア人青年はあまり裕福ではなさそう。その辺の「格差」があるわけだし、逆に言えばヒロインはそういう格差を無視して純粋な愛情だけで結婚に突っ走るほど「純情」でも「新しい価値観の体現者」でもなかった、ということですよね。

というようなあれやこれやがあって、受け取り方が難しい映画なのです。
いや、ヘンリー・ジェームスの原作が難しいと言うべきでしょうか。
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