あなぐらむ

マン・オブ・スティールのあなぐらむのレビュー・感想・評価

マン・オブ・スティール(2013年製作の映画)
4.4
クリストファー・ノーランとザック・スナイダーが組んで「スーパーマン」を撮る、と聞けば、映画好きならほとんどの人が、普通のヒーロー映画にはならないだろう、どうせグジグジ悩むんだろう、とか想像すると思うが、思った以上にヒーローアクション映画になっていた、というのが正直な感想。ビジュアリストであり、ケレン味たっぷりのアクション演出の才能を持つザック・スナイダーの良いところが出た結果だと思う。
非常にミニマムで、かつ驚くほどスケールが大きいという、矛盾した表現がぴったり来る映画だった。

クリストファー・ノーランは実際には作品のコントロールしかやっていない、という事で、本作はデヴィッド・S・ゴイヤーとザック・スナイダーが作り上げたもの、と考えるのが正しいかもしれない。作品の端々にはノーランテイストが感じられるが、それがよいスパイスになっているように思える。

マシュー・ヴォーンの「X-MEN ファースト・ジェネレーション」でも感じた事だが、アメコミ映画におけるヒーローは、「自分でもコントロールできない自我・感情(または能力だったり、人種だったり)」を主人公がいかに自分のものとして統合させ自立するか=大人として社会で生きていくのか、がテーマとなることが多い。これは読者である若者達にとっても切実な問題だから、だろう。ミュータントであったり、異星人であったり、超能力者であったりというのはその比喩である。旧X-MENシリーズ2作を監督したブライアン・シンガーは性的マイノリティ(ゲイ)である事を差別され、排斥されようとするミュータントの姿として描いている。
本作ではザック・スナイダー自身もインタビューで語っている通り、カル=エルとクラーク・ケントという二つのアイデンティティを持つ、移民であり、そして捨て子/養子である青年が自分の存在と向き合い、「セカイ」に受け入れられていくかについて物語が構築されている(名前が二つあるのは、かつての「白人酋長もの」におけるネイティブ・アメリカンにつけられる名前のような側面も持っている。「ダンス・ウィズ・ウルヴス」のケヴィン・コスナーが本作では養父を印象的に演じているが、偶然とはいえ面白い)。

また、こちらは脚本を担当したデヴィッド・ゴイヤー(彼はユダヤ系アメリカ人である)の弁によるが、「選択」の物語でもある。
クラーク・ケントとして生きるのか、カル=エルとして生きるのか。
それはどちらの「セカイ」を選ぶか(受け入れてもらうのか)という過酷な選択だ。本作で用意されたゾット将軍との対決のクライマックスは、原作サーガでも話題になったスーパーマン唯一の「(意図的な)殺人」である。オリジンとしての「セカイ」=クリプトン人として生きるのか、育った(愛情を受けた)「セカイ」=地球人に受け入れてもらうのか。
この物語が今、語られる事に意味があるとすれば、黒人/白人だけではなく様々な人種的マイノリティが入り乱れ、それだけでなく、ある一定の政治的な力となり得る現代の移民の国・アメリカで暮らす人々にもう一度、自分はどちらの世界で生きるのか、という問いかけを突きつける、というその一点に尽きるだろう。
クリプトンの人間がこの地球で生きるためには、自分たちが住めるように「環境」を変える=テラフォーミングする必要がある。「ガメラ2」ではないが、共存という余地は無い(それを模索していたのがクラークのもう一人の父、ジョー・エルである)。かつてのネイティブ・アメリカンが白人たちに追いやられていったように。
そしてカル・エルは、生きられたかもしれないクリプトン人たちの種を根絶やしにして(その事の象徴としてゾット将軍は首をへし折られる)、地球人(というよりは「アメリカ人」)クラーク・ケントとして生きることを選ぶ。
彼の絶叫は、だから途轍もなく切ない。自らの種をこの手で葬り去ったのだから。

強烈なビジュアルイメージの洪水とスピード感、圧倒的なカタルシスの前でついその感情を置き忘れてしまいがちだが、「アメリカ人として生きるなら、母国のアイデンティティを捨ててこの国に忠誠を誓え」という、本当に根も葉もない残酷な物語が「マン・オブ・スティール」の本質であったりする。

ところで、「スーパーマン」原作は当初からユダヤ人によって描かれたものだという。だとすればこれは一種の「貴種流離譚」であり、さまよえる民族であるユダヤの民のための「聖書」の語り直しのような物語なのかもしれない。
地球上では彼を超える人はいない。
本作では「スーパーマン(超人)」という言葉は兵士たちが「みながそう呼んでいます」とつぶやくという名づけ方をしているが、まさに彼こそは人の姿をして降臨した「神の一つ子」キリストそのものだろう。作中でもそれを感じさせるイメージをいくつも見せご丁寧に教会まで登場するが、大いなる十字架を背負い「人」として生きることを選んだ「神」が今後どのような試練に立ち向かうことになるのか、すでに準備されているという次回作に興味がつきない。「バットマン」という「人」と闘う「神」という、新たな宿題がそこには提示されている(これについては、「BVS」でひとつ、答えが出る)。