Manabu

あの娘が海辺で踊ってるのManabuのネタバレレビュー・内容・結末

あの娘が海辺で踊ってる(2012年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

映画と出逢い、映画を巡る旅をする___山戸結希監督『あの娘が海辺で踊ってる』


運命の映画と出逢った。かも知れないと思った。感動したとか、涙したとか、面白いとか、名作と呼ばれる傑作とか、世の中、いろんな映画で溢れているけれど、この映画はどこにも属していなかった。一言で表すと、それは感情の爆発物だった。

まだまだ観ていない映画なんて数えきれない位あるし、これからも誰かに作られ続ける映画のことを考えると、気が遠のいてしまう。何の為に映画は作られ、何の為に人は映画を観るのだろうか。とさえ思う程に。それは終わりの無い智慧の探求なのか?若しくは単なる消費活動か?いや、でも、そんなのどっちだっていい。本音を言ってしまえば。私はただ、美しいものを追い求めていきたいだけなのだ。

そんな折りに、私はこの映画に出逢った。手帳を見返すと、平成二十六年三月三十日、心地よい陽光が、地方の田園を走るローカル線の車窓から射し込み、それは、うららかな小さい春だった。と記されている。私は或る映画を求めて、地方の小さな映画館を訪ねる小旅行を敢行したのだった。映画を巡る旅である。その時、私と田舎と都会とを結んでいたのは一本の映画だった。それが『あの娘が海辺で踊ってる』だった。そんな事を考えながら、他に誰も乗客のいない静かな電車の座席に、ぼんやりと座りながら、私はとても幸せだった。

この映画を作った山戸結希監督は現在、作品を「ただいま絶賛封印中」とされている。ソフト化もしていない。都内での上映も当分は、まず無さそうだ。公式ホームページには「家出少女のために、地方上映はときどき」とだけ小さく書かれている。「自主映画である事と、新作を創る為」と理由をインタビューなどで返答されていたが、実際のところ、山戸監督は、本作を地方で上映する事で、そこに住む少女達を触発し、覚醒させたいと願っているのだ。それは、かつての監督自身へ向けられたメッセージのように私は思う。ともあれ、私はこの映画を観たい一心から、忙しなく窮屈で、せせこましい東京を脱出した。

熱海に住む女子高生二人と、男子校生二人のある夏のストーリー。AKBに憧れる自意識過剰な美少女の主人公、舞子は海辺の田舎町で周囲の人々からは浮いている存在だ。彼女はアイドルに憧れているにも関わらず「女として消費される、最も高値で消費される事に成功した人々」と言い放つ。日本舞踊が趣味の「ホトケの菅原」だけが唯一の友達であり、強烈な依存関係に陥っている。そんな中、三味線部の笹谷、古谷という「異性との出逢い」は彼女達にとって契機となる。地元に残る事を決めた菅原を残し、舞子はアイドルになる夢を抱え、田舎を飛び出し単身で東京へ向かう。彼女達が迎える一夏の成熟を描く物語である。

山戸結希監督は撮影当時、大学生三年生だった。潰れかけた学内の映画研究会を、自ら部長となる事で見事に再生し、部員を勧誘した。不思議な事に監督の元へ集まった部員は、ほぼ全員女子だったという。中野ブロードウェイ内にあるフジヤエービックで中古キャメラを一台買い求め、一晩で脚本を書き上げた。週末が訪れる度に、電車で部員を引き連れ熱海へ向かい、全て無許可で、思いのままに、監督自らが、ひたすらキャメラを回し続けた。足に釘が刺さり大量出血しても構わず回し続けた海辺のショットには鳥肌が立った。全てが未完成だからこそ、全てが新鮮で瑞々しく映った。大人へと移り行く少女の一瞬一瞬を、まるで蛹から成体へ変態する時の蝶を撮るかの様に、見事にフレームへと収めていた。鑑賞後、私はこの映画があれば、他には何もいらないとさえ思えた。映画が上映される際の触れ込みは「スタッフ全員処女による、処女の革命三本立て!」という衝撃的な宣伝文だった。

映画を見尽くしたいという欲求は完全に埋まる事は無い。だとしたら、自分が心から好きだと思った作品を、ずっと、追い続けたいと思う。私にとって、それがこの映画『あの娘が海辺で踊ってる』なのだ。この映画が、この先も封印され続け、地方へ流れていく度に、私はこれからも、この映画を求めて電車に乗り込むだろう。自らが消費される事を知りつつも、東京へ向かった舞子と逆行して。心から愛する映画のために、映画を求めて、その映画の良さをじっと考えながら、思いを馳せ、ガタンゴトンと電車に揺られ、映画に出逢うために、私は映画を巡る旅をする。
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