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かぐや姫の物語のnere795のレビュー・感想・評価

かぐや姫の物語(2013年製作の映画)
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以下長いので、最初に一言:刺身で充分旨いのに、手間暇かけて煮込むな、
あと、絵柄的に、濃厚な色彩の大和絵風でやってもらいたかった、お金かけたんだから… 















日本最古の物語文学「竹取物語」は、かの紫式部が絶賛したということからも明らかなように、最古というだけでなく、後世の例えば御伽草子等の一連の子供むけ物語とは比較にならない程の、鮮明な描写と緻密な構造に満ちている

その解釈は、今なお統一を見ないが、この作品は、ある程度ストーリーを改変しつつ、1つの解答を提示することを試みたものである。

要するに、かぐや姫の月から地上への来訪により、多くの関係者は不幸に見舞われる訳だが、それは、「ほぼ善良な」翁媼夫婦にとっても、容赦ないのであって、手塩にかけて育て上げ、良かれと思って娘たるかぐや姫のいわば下僕と化して尽くしたのに、結局相手からはその記憶すら消されるという仕打ちを受けることになる

なお、「ほぼ善良」と書いたのは、月の使者が迎えに来るに当たり、原作では、「金持ちにしてやったのに、調子に乗りおって」みたいに非難されるシーンがあるからで、五位の殿上人に取り立てるとかいわれると、帝の言いなりにホイホイなってしまうくだり等があるから、そう非難されても仕方ない面はあるだろう

ではあるが、関係する人を必ず不幸にし、当時のハイソ社交界のみならず、庶民レベルでもゴシップ記事の供給には事欠かなかった、いわば、おさわがせ姫、平安のダイアナ妃が、なんで好き好んで、地上に降りてきたのか?

原作では、月界で罪を犯した、そのために地上に降りてきたのだとしている。なんか、月人にとっては、地球は文化の遅れた流刑地なのかよっ!っていう軽い不快感を覚えなくはない(特に、月への連絡船に乗る前に、ワクチンみたいのを早く飲め、地上ではさんざ穢れただろうから、あたりはムッとくるな)が、とにかく、どんな罪を犯すと地球にやってこなければならない羽目に陥るのか?は、長いこと議論されてきたところである。

月では、死もなく苦痛もなく、飢えることもなく、楽しいことばかりの月に何が不満で罪を犯すのか?
この点について、高畑は、「地球にあこがれたことだ」とする解答を考えた

なるほど、何不自由ない月において、不自由だらけの穢れた地球にあこがれる(月の人にとっては、月以外の世界が、穢れているということかもしれず、一般的にそういった未開の地に対する憧憬だったのかもしれないが)ことは、まさに体制への根本的な懐疑であり、危険な思想だとして厳罰に値する、ということは、充分に理が通る

そして、「そんなに不自由なのがいいなら、罰として一度実際に体験してみろ」と地球に送られたのだ、と

月人が不死だとすれば、生殖は必要がないということでもある
つまり、月の人はセックスを知らないし、興味も持たない
翁媼が、「もともとは異境の人だったかもしれないが、縁あってこうやって地上に来た以上は、セックスして子供を産み繁栄するするのが道理というものだ」と説得しても、一貫してそれを拒むのは、いずれ月に戻ることを前提とする以上は、かぐや姫にとっては譲れないところだったのだろう 

かぐや姫を罰した月の裁判官は、おそらく、地上の穢れた不自由な生活にはやばやと飽きて、「ごめんなさい、もう月に戻して、二度と地球をあこがれることはないから」と音をあげることを期待していたものと思われる 
原作での前半部分、すなわち、5人の貴人への仕打ちは、まさにそうであって、「うすっぺらい恋愛なんてやってらんない、誰が構うもんか」という強い月人としてのプライドが感じられる また、原作では簡単に自殺を口にし、翁や帝の要求を拒む手段とするかぐや姫は、おそらく地上で自殺すれば直ちに月に戻れる、そういう仕掛けでもあったのだろう 

だが、5人の最後の石上中納言の情けない「死」に直面し、かぐや姫は、おそらくショックを受けたはず。本作品では、臨死の中納言とかぐや姫とのふみのやり取りが省略されているが、中納言は他と違い、別に嘘をついたりごまかしたり他人任せだったりしたわけではない、自ら長時間待機し高所に上って燕の糞を得て、転落したにすぎない そのような純粋な気持ちを自分が弄んだことへの、反省の気持ちが、かぐや姫内部で、地上人への対応への変化をもたらすことになる

次のチャレンジャーである帝が、前の5人とは違って、最終的には、最後まで交流それ自体は継続するのは、別に社会的なランクの問題だけではない、この中納言ショックが尾を引いているとみるべきだろう

帝との和歌のやり取りは、まさに心の通い合いだし、おそらく、かぐや姫には、月に帰らない選択もありえたのではないか、と思われる
満月ごとにかぐや姫が物憂い状態になるのは、別に帰らなければならないという強制ではなく、選択に悩んでいたのだと解釈したい

これに対して高畑作品は、帝の急襲に対して「消える」という月からのエマージェンシーヘルプカードを切ってしまった、つまり、それは「帰りたい、もう地球は嫌なところだってわかりました、ごめんなさい」を意味するという解釈になっている この解釈は原作では、「突然影に変わった」とあっただけで、その意味がはっきりしていなかったものだが、きわめて秀逸なものと評価できる
しかし、それではあまりにかぐや姫に主体性はないのではないか?
一旦カードを切ったら、「あー、ボタン押したね、じゃあ、戻すから」みたいに否応なく戻らなきゃいけないなんて まあ刑罰だからそういうもんだという反論もあるだろうけど

一方、月人とセックスに関して、高畑は余計な創作を加えている
つまり、素朴な村人捨丸との手をつないだ飛行で、これが、セックスの象徴であることは、「千と千尋」でも採用されている手法に他ならないが、この場面は、必要だったのか、なくても良いし、ないほうが、より物語の構造において品位を保ったままになったのではないか、と思う
かぐや姫は、翁媼や帝その他、セックス抜きでの交流に満足していた
(不自由の喜びを感じつつあった)のだから、それで地上への未練としては充分だから、である

せっかく、日本最古の物語の格調の高さ深遠なテーマを、世界に向けて発信できるよい機会だったのに、高畑の創作の追加によって、その点が多少なりとも損なわれたことを極めて残念に思わざるを得ない

なお、低評価のレビューは、「原作そのもの」「原作とほぼ同じ」だからつまらない、という趣旨のが少なくないが、原作をきちんと読んでから再度評価してもらいたいと思う

自分は、この作品の限界・問題性は、むしろ高畑が「原作そのもの」に忠実でなかったことにあり、その改作部分は、ほとんど余計だったと思う。
海外での公開が前提のジブリ作品で、原作にない帝の中国趣味、つまり中国の文化的な優位性をあえて入れたのは、とかく文化的のみならず政治的な冊封体制下にあったのではないかと誤解されがちな海外の人たちに誤ったメッセージを伝えることに寄与し、国風文化の典型である原作の価値を希釈する効果しかない そのエピソードが、何かの伏線であったわけでもないし、漢詩でのやり取りでもあればともかく、和歌でのやり取りが繰り広げられるわけだから、まったくの蛇足と言わざるを得ない

確かに解釈の方向性――かぐや姫の罪と罰を意味づけることにより、「地上のこの世のすばらしさ」を再認識する、もっとありていに言えば、「この人生って悪いもんじゃないんだ」という現世肯定――そのものは、1つの解として尊重するに値するが、それは原作だけからでも充分に伝わるのであって、この改変は、その解を導くのにかえって説得力を減殺する方向で機能していたように感じている

味わい深い素材である原作の構造や描写をなぜ敢えて壊したのか?
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