ニューランド

陽気なルームメイトのニューランドのレビュー・感想・評価

陽気なルームメイト(1943年製作の映画)
3.4
☑️『陽気なルームメイト』及び『フィラデルフィア物語』▶️▶️
第二次大戦参戦直後とその少し前の作品2本で、 戦争の実際的疲弊感等まだなく、いきいきした気負った米社会を表した作品らといえるが、共にそれらに距離を置いた、個人の世界に留まったより力強い誠実さが存在してる。スティーブンスのは、現実の誠実な肉付けが対日戦争をバックにした、世知辛い半国策映画を、バラしこっちに引き戻してくれ、キューカーは安易な予定調和や対立を越えて、白夜(ではないが)的なまどろみと照らし出しの世界に一堂を会し、しかし安易にマスとして混ぜ合わせたりせず·各々のドラマからズラし新たなカット枠決めのフォローを切り取り直してゆく、持ち前·最良の清新さを示してくれる。
『陽気な~』第二次大戦勃発で、従来のゆったりから急に賑わい住宅難となった、ワシントンD.C。その為の会議の主要メンバーの1人が、持前の几帳面さから2日前に着くも、ホテルは2日間は満杯、頼みの議員はスケジュールルースで戻り遅れ、募集中のシェアハウスに強引に入り込む(その2階へ行くのに一階ロビー夜間は簡易ベッドでギシギシ)。家主のお堅い女性とはチグハグも、更にアフリカへ一応国の任務で出発前待機の若い男を自分エリアをシェアし(¼)、自分の会議にも出てる役人との‘永い春’まんまの先の家主女性と結び付け直し·活性化させるべく、立ち回る。
国益·それへの高揚の為か、子供まで(日本人)スパイがらむ密告の国情への個人的反発の為か、バタバタ·スプスティック·アクロバティック·色好み·ヒステリックが散りばめられ、刺激しあってゆく。ひと筋縄ではゆかぬ、時流への個人主義捨てぬ自己流協力の形。セットの屋内·屋上·窓枠絡み·人の絡みと動きと整理、カメラのアングル切り取りと組み合わせ·移動のあたふたや発見、人の思惑への想像湧かせと無役の人々の存在の浮き上がり、やはりこの演出家は骨がある。
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一方『フィラ~』、キューカーのこの代表作は昔初めて観た頃はやや力のない、きれいごと·淡白に見えた。今考えても特に、’40年代末から’50年代に入っての粘っこく·矛盾するが同時に乾いた呆気にとられる作品群に比べると特にそうだ。しかし、本作のアッサリ感は底知れぬ事に次第に気づいてゆく。元々、この人の作品は観るチャンスがそうなく、’70年代はビデオも衛星放送もなく、『若草物語』『椿姫』『マイ·フェア·レディ』『恋の旅路』(『ガス灯』は当時はあまり好みではなく、K·ヘップバーンものは’80年代以降観れた気がする)らに感激してたに過ぎない。しかし、鑑賞本数が増えていっても、信頼は変わらず強まるばかりの稀有の人だった。
本作はあまたあるこの作家の傑作の中でも、際立っていて·代表作の一本である。表立った混乱や修羅場や豪勢御馳走様的な場面は、退いて·破裂拡大してくなんてこともないし、結婚式前夜のパーティも、結婚式自体も前面に出ず、間を繋ぐ時間や場が、白夜のごとき曖昧で透明でやがて内なる真の混乱·困惑が明らかになり、整理され·僅かの進展·落ち着く場への帰還が示されるばかりである。しかし、何かが真に誇らしい。カメラも力ずくでないフォローの長め、少しズラせてひとりの切り取り·真新しい沿い方を秘めやかに宣言、様々な組合わせを自然に呼び集め、向かいあわせ闘わせるだけである~トゥショットやリヴァースに恣意はない。その際、作品の冒頭と終部にしか出ない、只拡大するだけのマスコミ·報道の対人関係を省いた威圧感だけは、見えない大きな明確·迷いなく·獰猛なシステムとして見いだされて背を向けるものとして標的化·対立項と·されてゆく、只やはり思念の中で対立するだけで、変わらず存在は活きている。主要人物たちは、目的を疑いながら集まり、明確な捌きを眼前の対象に決めつけんとし、より混乱し羽目を外し、しかしそれは破壊ではなくてより朧ろなカオスに届くばかりの人たち。「女神(如き)」「純潔」「完璧」「弱さを認めない」「光り輝き」「傲慢」「下層からの選択」「決めつけ」と、「寛容」「思いやり」「愛されたく」「人の弱さ」「脱線·泥酔」「下層からでもダメな奴はダメ」「皆、人間。人間的」が、朧ろにイメージ·実体として対峙してくる。例によって、環境·立場·意志が一方の側を1人のあり方として·際立てているが、内実は意識せずも·両方の中で揺れ、正面切っては打ち出せぬ中·後者のグループが柔らかく次第にウエートを認められてゆく·おおらかで決めつけぬ微妙な揺らぎ、それが発現してゆくかどうかは、あくまでシャッフルの具合·その人その人の練り具合のチャンスの度合いだ。それらは、ドラマ·作劇を超えて、張り詰め·澄んで·ヒンヤリ目を醒まさせてくる。
物事を明確に決めつけ差配し·自分と周囲を納得させてく令嬢は·新しい結婚直前、同じクラスの元夫はロマンチシズム偏りではみ出し·酒に溺れてったが復帰·戻りくる、その彼と·共に所属の低俗スクープ紙の厳格ハイソへの極秘潜入記者として乗り込んでくる·作家として認められぬジレンマの誠実手離せず男、彼を大事に伸ばさんと脇で支えるバツイチの女性カメラマン、巾持てない令嬢の母も·歓楽街女と去った豪放·父に未練、父の兄=伯父のコメディリリーフ·僅かな波紋立て、労働者から実業家へ叩き上げのタイプは令嬢の区分け好みの新郎(の筈)、これらの様々な組合わせの可能性のキューピットを担う·キュートでクレイジーな令嬢の妹の少女。この頃のジミー·スチュワートは、ヒョロッと若造で華奢に見えて、なかなか強靭な輝く中身があって、昭和40年代のD·F·ジュニアみたいだ(「オーバー·ザ·レインボウ」を歌いケイトを抱えて奥から出てくる姿など、当時の巨人の馬場をスープレックスで投げ捨てたジュニアの姿とOLする···共にドイツ系-違うとの事-なんだろうが顔立ち·佇まいがよく似てる)。
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