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ペトラ・フォン・カントの苦い涙のotomisanのレビュー・感想・評価

4.1
 死別一回、離婚一回。男運が悪いわけでもあろうが、それ以上に自分の運を男任せにしたくない女35歳ペトラ、フォン・カントが服飾デザインで頭角を現して3年でもう大物。その間、アシスタントのマレーネを顎で使って、彼女が言葉を発した最後のときがいつだったか、戦間期最後の年に生まれた爵位こそないが貴族の血をひくフォン・カントは覚えてなんかいないだろう。

 対を成すマレーネが、はいもいいえも発しないのは要らないから。女主人の命令にはそれ以上の成果で応え、発砲さえためらわない?
 ペトラの元を去る荷造りで、ささやかな身の回りの品のひとつ、その拳銃をトランクに落とす一瞬のためらいに或いはあの拳銃だけはペトラの命に因らず、マレーネの本心から使われる筈のものか、と思ったが、あれをペトラに向けるその前にペトラ最後の恋人カリンを始末する用意もあったろうか?

 そんな事には頓着しないだろうかペトラは?
 初めて見るマレーネのわたくし事に発する荷造りに、それを押しとどめもせず珍しいものを見る思いだろう。裏切者とはいえカリンを失い弱り目に祟り目な自らを支えるべく窮地の下で縋った無言のマレーネが示すためらいでも戸惑い、様子見でも無い不可解な動作の中にその拳銃を垣間見て、この3年間が何であったか顧み、解釈が逆転する事が無かったろうか?同時に自分の名を高からしめた才能と手腕を支えたこの下僕を押さえ込んだ力が今の自分にはもうない事を悟って、これからはこの小さな屋敷と世界を相手の大仕事の瑣事をひとりで切り回さないといけない事に凍りついてはいないか?
 マレーネが見せる離反に静かな革命がペトラを更なる窮地に陥れるのを感じはしないか?多くのものを勝ち得たこの3年だがそのツケが今一度に回って来てもう執行猶予は利かない。

 ただし、以上はペトラの視点からの事、3年目にペトラ自身も初めてマレーネに示したであろう破格の好意をマレーネはどう咀嚼し反応するか?その結果の荷造り、あれがフォン・カントへの決別なのか?マレーネの自身への愛の勝った姿に過ぎないのではないか?
 マレーネは無言・無感情すぎてこの3年を耐えた自らを称える寸暇も荷造りの今は取れない哀しみの深さを推し量り様がない。

 いづれにせよマレーネもまた自分、ペトラを置いてゆく事になるだろうと、ならば、ペトラはこれより悪い事はもうあるまいと、血の退く思いの後は安堵していられるに違いない。あの敗戦と戦後の動揺の頃のように。
 マレーネのこの件の前にペトラの引きでモデルのスターダムに乗ったカリンが裏切った思い出を詫び方々の電話で癒してもらって、これで労働者の娘にかしずいた貴人の面目も施され、あんな跳ね馬にはこりごりとこれからは緘黙の黒子マレーネをパートナーにとジンでぼやけた頭を絞ったものの、マレーネからは自分自身に向けて吐いた嘘を返って無言裡に指摘された恰好だろう。そのかっこ悪さに緘黙して迎える運をひとり寝の闇の中泣くのだろうか?

 多分二度と泣かないのだ。ジンの力でどっと寝て目が覚めたらやり掛けの仕事を再開し、取引相手に電話して、猫二匹を養いその日の郵便を自ら取りに行くのだ。
 従順さを当然として、居てもいない空気のような下僕に掛けた最後の言葉がどんな侮辱と作用したか?かつて、誰とも知れぬカリンにかける厚情にたじろぐマレーネに気付きもせず、今また厚かましいカリンの言い訳を諾々と受け容れて、結果空いてしまったこころの穴の埋め合わせとして、誰に何を言い寄るのか?それは忌避すべきどんな兆候とマレーネに捉えられたか?
 昨夜、去り際に電灯を消していってくれた女房役のマレーネ、言われる前に計らってくれた事に感謝の念が湧いてくるだろうか。もひとつ、事のついでのように男爵夫人の置き土産、カリン似のあの人形、どんな始末をつける気か攫って行ったのをひとり迎える朝おぼえているだろうか。

 ただし、フォン・カントは決して一人ではない。同じ屋敷のどこかに今は縁遠い一人娘もいて、或いは我が母もまだいるかもしれない。この恵まれた貴人は決して、ひとり大樹ペトラ、フォン・カントの元を去っていった女二人のような裸一貫ではないのだ。
 この歴代から受け継いだ幸運、国民社会主義労働者帝国の終わりの始まりに生れた貴族の娘が異様の帝国の没落、平民社会での沈潜と自立、いま退廃の末に半ば自滅に瀕してはいても手放しはしなかった強運を不意にするほど愚かではあるまい。
 この物語は、こうした落ち込む者、伸びてゆく者、こころを新たにする者のあれこれだが、決して誰も滅びないし滅ぼさない、そうすればいつか再起の芽が伸びる事をうたうようでもある。旧帝国が国威を示した五輪大会を再起したドイツの精華としてあらためて世に問うこの年、古いドイツの根幹である貴人ペトラの失意、若い世代の出立を通じて、そんなごく自然な成り行きだがこれほどまでに異様な有様を呈する事を叩きつけて各員の前途の不安と多難、それでも今現在に決して留まれないヒトであるから、前進する以外何があり得ようか、今こうしてあることの運の強さ、不埒なまでの自尊、最悪な奥の手をどこまでも温存しきった度量、別に根拠など無いかも知れないが持ち前の才覚を信ぜよと不安げながら告げている。
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