古川智教

ミークス・カットオフの古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

ミークス・カットオフ(2010年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

男性性から女性性へ、女性性からインディアンの少数部族へ。マイノリティーへと流れていくことは、水の流れと一致するはずだと信じて、三つの家族と案内人のミークは荒野を進んでいくかのようだ。しかし、問題となるのはマイノリティーへの流れの先に「水」があるとは限らないということだ。「水」はないかもしれない。もしかすると、敵の大群が待ち構えているかもしれない。「水」があるかどうかは分からないが、疑心暗鬼になりながらも「水」があることに賭けること、これが男性性である。インディアンに銃を突きつけるミークが、ミークに銃を突きつけるエミリーにインディアンを生かして「水」を探すことは賭けだと言っているのに対して、エミリーはミークにこれは賭けではないと言う。つまり、女性性には賭けは存在しない。自らを「水」の流れ=マイノリティーへの流れとする、そこに賭けはない。賭け事ではないことをいつも賭けにしているのは男ばかりなのだ。エミリーにとってインディアンを殺さないということに選択の余地はない。そして、それは「水」を見つけるためにはインディアンに従うしか選択の余地はないということに重なって、流れを生み出す。選択の余地がないことの重なり合いが、選択としての流れになる。あれかこれかの賭けではないのだ。映画の終わりで一行は荒野に生えた一本の木を見つける。木の樹冠には下半分にしか葉が生えていない。あくまで一本の木のうちで半分に分かたれている。「水」があるかどうかは確率の問題ではない。確率の問題であれば、葉の生えている木と葉の生えていない木と二本なければならないだろう。ひとつのうちの半分とは、確率や賭けを無効にするマイノリティーへの流れのことなのだ。半分からさらに減少へと転じていくマイノリティーへの流れ。エミリーとインディアンの視線が交わるのもその地点である。マイノリティーへの流れは、「水」の枯渇そのものとしての流れでもあり、「水」を探し求めて彷徨い続けることそのものの流れでもあるだろう。 「ミークス・カットオフ」=ミークの分かれ道とは、アメリカの分かれ道なのだ。終わりのない選択の余地のない分かれ道であり、永遠に「水」を探して彷徨わなければならない。
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