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エマニエル夫人のmasatのネタバレレビュー・内容・結末

エマニエル夫人(1974年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

“旋風を巻き起こした映画”、
それ以上でも以下でもない。

しかし、いま、21世紀に振り返ると、
いくつもの発明があった。

一つは、ファッション・ポルノ、という曖昧なジャンルを確立したことにより、ポルノというジャンルを観たくて堪らなかった70年代の女性たちに機会を与え、悦ばせた。
以後、このジャンルは、映画史に一つのラインを作ることになり、その時代の風紀と結び付き、その都度、現し映画はトレンドとなる。手を替え品を替えファッションとなり、観客を悦ばせることに成功した。

もともと映画とは、いかがわしさと、人間の下衆さが結びついて、大衆を惹きつけるもの。
怒られるかな?では言い換えよう。リュミエール的に言うと、観た事のないもの、を観せ、魅せるもの・・・

なので、(リュミエール商会による)観たことのない風景から始まり、(メリエスによる)月=宇宙へ一気に飛び立ち、死やグロやエロに派生していったメディアなのである。

その点からも、SEX、即ちエロは、男女問わず、好奇心MAXになることは確かである。さらにそこへキレイなコーティングを掛けた見掛けを味方にし、この男性的なジャンルへと女性が押し寄せ、ヒートアップ、いや、大ヒットするのは当然なのである。
それを最初にやるかやらないか、が映画史に遺るか遺らないかの決め手となり、見事に本作は燦然と輝く事になった訳だ。

もう一つは、
作品の企画力に注力した“宣伝力”の威力だ。内容ではない。飽くまでもその企画性であり、そのポイントを巧く届ければ、煽れば、映画は興行的に成功する、と言う事を知らしめた。出来の問題ではなく、“その時、人間は何を観たいのか?”を的確に把握し、そのポイントを届ければ、話題になる、と言う事を露骨に知ってしまった。
これを映画的発明と呼ばず、何というのか。

以後、ゲスい映画が、煌びやかな包装紙に包まれ、大当たりする。
なんという映画の本質を突いた、愉しい側面だろう。

さて、本作の中身の魅力は、
一にもニにも、主役、シルビア・クリステルの発見、だろう。彼女の発見は、とてつも無い。彼女の魅力だけで、観続けられる。
その観点から、(ゲスい)アイドル映画の源流をも見て取れる。

さらに、ゲスいのは、そんなフレッシュな彼女を、アジアのオリエンタルなムード、“湿気と汗”でふんだんに包み込んだところが、センスすら感じる。
オリエンタルな見たことのない風景に、フランス女をハダカで立たせた、レズらせ、現地人にバックでヤらせ・・・と散々な趣向を凝らし、ソフトフォーカスで映し撮る。それを我々は覗き観るのだ。
これが当時の“マイ・フェア・レディ”となって、大ブレイクとは・・・70年代は乱暴なる発明の時、なのであった。
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