ニューランド

色情妻 肉の誘惑のニューランドのレビュー・感想・評価

色情妻 肉の誘惑(1976年製作の映画)
3.5
☑️『色情妻 肉の誘惑』及び『シークレット·ディフェンス』▶️▶️
名監督と名カメラマン(撮影監督)コンビの見事な一騎討ちを、昼と夜の部で1日の後半分のスパンで体験する。日仏の対決は、やはり我が日本の方に迷いなさ·潔い大胆さで軍配を上げたいが、フランスの澄んだ美しい軌跡もちと得難いものだ。
催し物自体は、最近?(よく知らない)亡くなられた、脚本家桂千穂さん追悼の、自薦的な作品群で成り立っている。名脚本家であり、映画愛(他)の著作でも有名な方だが、個人的にはデビューの辺りからいいと思ったことはない。昔の印象だが試写室での態度も廻りに不快なものだった。
周到陰湿な性犯罪の組織に引き込まれていく上流の欲求不満妻(+死の恐怖に脅かされた)、タロット占いへの関心から入って·全てが夢か現か朧ろな世界。羅列に過ぎず(性の反転の幾つかのかたちは見事な力があるが)、犯罪者が数珠繋ぎで護送車に乗り込まされるも、逆に愉しげに此方の方を観てるラストの夢幻的トーン、’60年代後半のフェリーニ(或いはバーヴァ)の境地は、カメラや美術のスタッフの力で達し得たもの。
当時アルトマン映画等で流行ったフラッシング処理でもしたような独特の燻したような粒子感は邦画では珍しい凝り方·一貫性で、樹木葉や風のカーテン越しや·係わる人ら絡みの縦の仰俯瞰図と陽光の浸食、一方狭く湿っぽい室内での赤めの調度·蝋燭(或いは電気的火花)·衣装のエキゾチック·エロチック以上の映画的気品、そしてヒロインらに沿った延々歩きのフォロー縦移動や視界の左右揺れ返しの浮游的日常が描かれる。身体の絡みや喘ぎのカット取りも丁寧だ。内容以上の、バジェット以上の、精神的·感覚的自由さとディグニティを感じさせる。
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これを更に奇抜·特異·自由な世界に組立て、発展させていってたのが、リヴェットの映画であり、その世界を一般の日本人が知らされたのはやっと’70年代の後半からで(若い人達は、映画文化の孤島時代の日本を想像できないだろうが)、その表面的安っぽさも含め、映画一般枠からの外れ方は、日本の映画環境からは想像も出来ないものだった。この撮影監督を最も重用したのはリヴェットだが(しかし、イオセリアーニ·ゴダール·ストローブ=ユイレ·ガレル·ドワイヨンらにも、頼りにされてて、20世紀の後の方の四半世紀の、欧州映画の色と形を決定づけたのはこの人に違いない)、その前の時期に比べ、堅く迷いなく純粋に対象に斬り込んでく力·ぜい肉の無さ·大胆さ等が、ぐんと増したと思う。リヴェットに限らないが、この撮影監督の澄みきった、光や混乱に溺れない、シュートの軌跡は、正に奇跡の飾り無い美だ(併せて、奇跡のカメラワークの高低を封じ込めての、粋·妙·正確)。4時間全裸だけが占めると喧伝されて変な期待をしてた『~諍い女』も、何かに溺れるはなく、古風建物も、女性の陰部·臀部も、謂れも、葛藤する精神も、同等同様に並列·屹立していたのだった。
その中この作品『シークレット~』は、確かに前後の作品程高名でない分、というより自己が半ば決めてもいる、摩訶不思議なルール·世界観、説明できぬ存在の力、の従来他作の扱う対象に変わり、生命や政治の敢えて語る事が事情で不能なだけの·明確な行動原理が仕事や使命ではあるらしい現代人社会を舞台とし、短絡的な仇や行動の決定、ひとつの緊張関係を傍の柔らかい関係が並走し·それらの複数が縒り交わって、謝った殺人も続く、という事態の奥が見透せない不可解さよりも、一般映画に近い複雑な交通整理(になり得ない)の妙·ズレを醍醐味として楽しんだ本作は、対象自体や状態の力に欠け、視線を変えるどんでん·切返しらのカッティングや構図の形や色の区切りのキレは従来よりもあるも、直接的意味のない彷徨らしきを延々フォロー+аしてくいつもの移動もそれ自体の力は弱く、縦等にフォローしてうろうろする事自体が力なのに、小さく左右+すこしズレ廻りめも、の動きを載せる表現の空洞からの飾り付け少々の撮影監督だけの範疇の裁量(或いは本当に迷い戸惑いが出てるのか、とも見える)を感じてしまった(ラスト辺りなどは、カメラ内編集かも知れないが、ショット中短いFOとFI何度かの場持たせをやっている)。
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