ニューランド

ブロンコ・ブルフロッグのニューランドのレビュー・感想・評価

ブロンコ・ブルフロッグ(1969年製作の映画)
3.7
✔『ブロンコ·ブルフロッグ』及び(3.7p)『13人の女』(3.5p)▶️▶️ 

 この白紙委任状の番組は急に決まるので、いつも何十年も観たかった一本が見れない。こういうのは、勤め人じゃない人が企画するので、仕事を急に休めやしない事をご存知ない。『ワイズ·ブラッド』や、40数年前TVで短縮版しか観てない、フラッシュバックや編集·構図の鋭さ、極私的情感が見事だった(レッドフォード監督作等と問題にしない)『レイチェル、レイチェル』等、口惜しいに留まらない。この企画はあまり聞いてもしょうがない解説語り(大寺眞輔の話程退屈ではないが)があるせいか、作品の知名度に比べ料金が高すぎるが、会場に私用で会いたい人が来てる筈のせいもある、全く知らない2本を金を捨てる気で観る。
 『ブロンコ~』。遅ればせながらやっとこさリアルタイムで観始めた頃の、’80年代初めのローチの労働者街の非情と乾きを描いた作の先取り、を連想させる、地味もまさに、無駄がない確かは作と見えつつ、やがてより緩さが感じられてくる作であるが、当初以上の何かが拡がってもくる作である。浅め切り返し·どんでん、退きと寄り、軽いパンやティルトに限る作で、音楽が適度に挟まるが、タイトで望遠が使われても、締まった感覚は失われず、暴力的破壊や対立·誘いが張り出してくる。やがて、仲間たち·デートの関係も狭く限定された侭で、パンを越え横フォロー移動や室内から入ってくるのの望遠からそのまま縦にフォローも退きくる、締りいまイチの(直交まではしない)切返しらで、緩みが感じられてくる。しかし、終盤主要3人が駆け出し逃げ出し走る辺から、深い縦移動やズームが割りと大胆めに入ってきて、ラストカットはストップする。ラストの3方向の飛躍と腰の落ち着け。「家に帰ろう。仕事もしなくては。ジョーの様に逃げ·怯えて生きるのは嫌だ」「欲しい物は手に入れたくないの?」「欲しい物って何だ?」/「ここに留まる」「俺は捕まって、少年院に戻りたくない。逃げる」
 ロンドンの貧民地区か。溶接工をしながら、不良仲間と、閉まった夜間の店を襲い、収穫は少なくとも、ワルをうちわでは気取ってる少年、もうすぐ16歳で卒業したら事務タイピストになろうとしている少女。互いに親は保守的で、2人の内実はよく知らず、デート·交際·非行を端から認めない。少女の母の方が何か歪んでて、強盗で刑務所にいる父の方を少女は慕ってて、絶対母元から出て行こうとしてる。そこへ少年院出所の旧友(仇名がタイトルロール)が、ここしか場所がと、戻ってきて、家主には善人装いながら、より大金·大量物資を盗み出したりして、主人公にも話しを持ちかけ、より大々的に実行したりする。それとデートも併行してて、わりと礼儀や相手を重視しつつ、ドロドロにははまらない。母が警察を呼び込んだり、対立グループとの絡みもあり、全部追い詰められたわけでは無いが、感覚的にこの地から逃亡を始める2人。父から買ってもらった逃走手段のバイクを駐車時トラックに潰され、1人トンネルで2人の大人に血まみれにされたりもする。警察が先に他所で捕まえた少年院出の少年を連れて入ってホテルに入ってくるが、3人で一瞬のうちにボコボコにして、映画的開放的走り続けの連ねになる。
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 『13人の女』。所謂スラッシャーの先駆的·戦前初期トーキー作品で、大L·Lと寄り対応での姉妹空中ブランコ、駅のフォームでの退きと寄りの角度変え+人とカメラの傾きカット、車の1人残しての乗り捨てから·後続車からの乗り移り、列車最後尾からの続く空間への転落、らのLやまんま即身での殺人(意図)の話が、透明で掛け値なく澄み切って空恐ろしい迄に一瞬躊躇いなく描き抜かれてる。退きと寄りの切替え·縦フォロースマートも危うく、単純で無駄ない、次々殺人計画実施、成ったら★図被せでえがかれてくが、「避けられぬ運命」の「暗示」や具体仕掛けで、権威ある占い師の問合せへの答えを近くにいる立場を利用して都度最悪に書き換えるという、アシがすぐ付きそうな犯罪だが、そして互いが近しい相手への運転手や刑事も入り込み、色々張り出してはくるものの、根っこの「白人ではない混血も、前者で押し切り進もうにも、入れなかったばかりかそれにストップを完全にかけた、同じ学年の女学生グループ(本人らは無自覚)の残酷への復讐」の念がせり上がり見えてくると、映画を越えて息も飲む。
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