左衛門

わたしはロランスの左衛門のレビュー・感想・評価

わたしはロランス(2012年製作の映画)
1.9
人に勧められて鑑賞した友人の話をきいて鑑賞。
長い💦
またこの手の映画か、というのが正直な気持ち。
LGBTQはたまたま時代と社会に適った道具というだけで、骨組みの全く同じ問題というのは、人間が農耕牧畜と共に定住し、所有を主張し始めた頃から抱えていたはず。
この作品は、人間を始めとする様々な社会性動物(知りうる限りでは主にゴリラ以外の霊長類)に見られる「強制のある主張と暴力」という純粋な悪を描くことがテーマにあるはず。というか、そういう意図で撮られた作品だと思いたい。でないとこの二時間半がキツすぎる。
理想の自分と現実の自分に折り合いの付いていないカップルの成長が語られる。幸せとは何かを知らないまま、社会の用意した鋳型から出した、貧困な幸せの像を2人で眺め、足元の小石に躓き続ける。これに気が付けない程、内面も相応に貧しい。その幸せは恒久的な幸せではなく一時の安心でしかないので、次の不安、そのまた次の不安といった具合に、迫られ、依存症のような堂々巡りを繰り返す。
そのうちの一つとして承認欲求を爆発させ、このためならと様々なものを自分のためだけに犠牲にする様が描かれる。ここでの手段が性同一性障害というわけで、序盤の主人公のそれは、「個性」でも病気でもなく「強制のある主張と暴力」の形、即ち社会悪の形で発現する。要はワガママ、人のせい、現実逃避を伴ってこれにしがみつく様子が見事に演じられる。
主張する限りは他人の主張も認めるべきであるのに、それは許さない。向けられる視線を自意識でで曲解し、ものを投げ、人を殴り、罵倒し、ねじ伏せる。純粋な悪と暴力。
これこそが、この作品の描くテーマなのだと信じたい。取ってつけたようなペラい個性?を爆発させて、それを褒め讃え満たしてあげるだけの映画だとは思いたくない。だとしたらこの時間がやるせなくなる😅
とはいえ、ラストシーンで一応の克服は描かれる。ただ、そもそもがごく個人的な葛藤のため、解毒の効果も薄く、しんどかった。漱石の「門」の宗助のように目を逸らし続けたまま終わったほうが、悪と暴力を描くには適ったろうが。
アマゾンの原住民にはLGBTQはない。というか、まだ輸入されていないと言うべきか。同性愛がないと言っているわけではなく、そこに主張も承認も必要ない。ともかく、それでも、同じように社会からはみ出すような生き方を選ぶ人もその中にはいると本で読んだ。人間のどのような社会であれ、その骨格だけでみれば、それはごく自然ななりゆき、現象の一つだと思える。ふつうのこと。しがみつく物が、社会や時代によって違うだけ。
器質的な原因があれば、それは寄り添うべきだとは思うのだけれど、社会由来のものを、身体のせいにするのはヤメて欲しいというのが正直なところ。本当に悩んでいる人、苦しんでいる人もいる。身体は意識なんかよりも随分と信頼できるし、大抵はその身体からのサインを無視して具合が悪くなっている。そりゃ身体じゃなくてあなたが悪いんですよというのが殆どだと思う。
特別な人などいない。みんな特別だから。その中で特別を主張し、承認する必要などあるのだろうか。それを、暴力というのではないのか。ありのまま世界を見ているゴリラの社会を少しは見習った方がいい。
まああと、私文学をただの不幸自慢の道具にするのは、どこの国でも起こる現象なんだろうなと思った。江藤淳に怒られそう。
カナダにもゴキブリいるの意外💦
あと、字幕が縦🤔

結局なぜこれを友人に勧めようと思ったのか。モテたいのか。キレて割った食器は弁償しようよ、犯罪だぜ。そんな不可解なオシャレ映画に1.9点
左衛門

左衛門