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ハーラン郡(原題)のニューランドのレビュー・感想・評価

ハーラン郡(原題)(1976年製作の映画)
3.5
✔『アメリカ合衆国ハーラン郡』(3.5p)及び バーバラ·ハマー初期作品集【『シスターズ!』(4.0p)『月経』(3.7p)『ジェーン·ブラッケージ』(3.6p)『スーパーダイク』(3.5p)『ダブル·ストレングス』(3.9p)『オーディエンス』(3.4p)】▶️▶️

 政治や性に関し、偏向したテーマ設定を、直感的に思ってしまう(あくまで感じだけで、冷静に考え窺うととんでもない)2本の非劇·非劇場用映画立て続け鑑賞の日。
 『~ハーラン郡』は、『地の塩』の線を継ぐような作だが、時代は進んでも、事態は寧ろ悪質化してる痛みを受け続ける。モノクロ(のより過去の時代のニューズリールも)シーンも挟んでるが、元が劣悪の環境·素材の16ミリなのか、保存が拙かったのか、色の汚れも粒子粗さも凄みを逆に感じるトーンで、極端なCU表情(へグイと平気で寄る)の占めと·銃器の現しやそれによる殺戮が画面に同等に並び、公や闇の組織の視覚外からもの圧力·暴力(無法)が、おぞましいまでだ。圧力に対する、老若男女の労働者·その家族ひとりひとりのあからさまな戦闘意識が、突出するというより、当然に見えてくる。
 既に石炭から石油にエネルギーの主体は、移ってはいた時代だが、ケンタッキー州ハーラン郡の小さくも古い歴史を持つ炭鉱の1974年からの年を跨ぐスト·ピケ·労使交渉の、拡大化·意義を深めてく闘争の文字通り埃まみれの記録。電力会社下の石炭採掘企業対、鉱夫らの、安全·賃金·医療保障·年金らを巡る、ギリギリの生死·生活をかけての争い。生活と闘争とぞの芽は根付き、カントリーかソウルかみたいな、闘争の歌が末端まで、その糧として行き渡り、編中の惟一拠り所の柔らかみを表してる。鉱夫らの所属する鉱山労組上位MRWのトップの現在は、企業らと繋がり抑圧側にも廻る富裕·利権甘受側なので、これを選挙でおい落とさねばならぬ。また、企業の雇った鎮圧者を越え、保安官·警察らは、あからさまに銃を使っての鎮圧側に廻ってくる。鉱夫ら以上に戦闘的·組織的は、夫らを廃人や死に追いやった、肺への粉塵·闇と狭い中の過酷長時間肉体破壊、への怒りで本格、平和主義から対抗銃器も持つも検討してくる、夫人(婦人)団体。スト破りの入場を道路に横になってまで、チェック阻止する。企業側はマフィアとも結びついて、目障りな者の暗殺も厭わない。年を越して止むを見せない、ストライキは、全国に影響し、全面とは行かずも徐々に勝利の流れは作ってゆく。闘いのスケールが拡大し、企業業者の協会BCOAとの折衝では、契約における敵の譲歩を少しずつ引き出してはゆくが、以降のスト権放棄が織りこまれてはくる狡猾さに、気が緩められない。
 まさに迫真のドラマかドキュメンタリーか分からない、現実そのものの、組み立てを越えたデクパージュもなされてく。今見ても、稀にみる充実作であるも、確かで、社会の条件要素を越えて、人間の未来と世界を見据え考動する、熱度は受け取れ、引継ぎを誓わせられもする。
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 B·ハマーに関しては20世紀の終盤辺りか、映画祭で翻訳も不充分な物しか観ておらず、21Cになって丁寧な版が一般公開になったようだが、今世紀は2.3年前まで忙しかった事もあり、また、結構硬派な作風に敷居の高さも感じ、見ずじまいだった。
 しかし、以前観た後年の長編に比べ、初期短編作群は、極めて快適、かつ充分ラジカルで感銘に近いものを受けた。本日1本め『シス~』は、取り分け素晴らしく、軽やかな音楽と、女性の女性による世界を謳いながら、望遠の自然枝葉バックの若い女の顔CUから一周戻るパンと呼びかけ、上下や横移動やDISを対称をなぞり使い重ねての男の職への社会進出、国際女性デーでの行進やスクラムのフォローや過ぎ行く姿·スクラムやラインダンス?角度変対称リズム、またそれらでの歩み来る脚らの寄り図の多様組合せ力、身体を強靭化させ·集い経ての誇示や絡みの·裸体の威容と同性愛の至福感、らを綴り、極めて素直でセンスある力に満ちてる。迷いや苦さのない、純粋な恣意性のない、讃歌に近い。
 2本目は、タイトルの『月経』を、画面を赤でマークや一面塗りもし、裸体かの股間から挟んだ卵を落とし、それらに鮮血したたらす、デフォルメ·シンボリックな絵をOLも交え重ねながら、鮮やかに軽やかに描き抜き、初潮時の戸惑いと母の回答の記憶に至る。
 3本目『ジェーン~』は、当時のブラッケージ夫人ジェーンの、スチルやフォローの顔をOLも絡め重ねつつ、車窓や主観での彼女の住むコロラドを巡りながらの、山の所有、動植物·人間と獣·に一切の差異認めず、世界との一体存在とその一部としての自己認識、子らを産み忙しい侭に体調不良に至っての·家庭を抜けた世界での·自己見つめ直し、のさっぱりし重さを祓った(偉大なるスタンの伴侶だったというより同等の個性の持主であるを改めて実感)彼女の、普通ではないが·本来我々が世俗の足枷を取り払ったならば·普通の筈の世界観を導いてくる。
 4本目『~ダイク』は、アマゾネス団を気取るも楽しい女性グループの生命感を、弾け·うねりを他のグループも絡め、着衣·裸体、素やOL等映像処理、区別なく繋げ、ズームの多様の絞り込みや·個と集まりの多様さの·表現と生の力を、伸ばし続ける。
 5本目『ダブル~』は、作者と同性愛パートナーへの想い、「自分と、自分以外の全ての存在、世界の全体を感じさせ、また、別の存在」の感触·絶対性と可能性を、自らの裸体でのアクロバティックなポージングや構図を主体に、相手の表情·姿·交遊にも届き、モノクロ映像の、似せた図·或いはシンメトリーの図を重ねOLさせながら、高度でニュアンスと拡がりに満ちた、イメージと存在·関係を構築してゆく。全作を通じて、日本·東洋人の外観と違い、ヘアと近辺が黒々堂々としてて自然な主張としての、この性向に全く異を唱える気も消え、賛同すらしたくなってくる。
 当時の飾りを削いだ剥き出しストレートな表現にふてぶてしく固執する、ラジカルなニューアメリカン·シネマ全体からは、商業映画的なデクパージュや手法がうっすら感じられるかも知れない。しかし、今の目でみると、世界観·映画観の突きつけ、より共有を願い望んでの、殊更な挑戦性を抑えての妥当なスタイルを選択した気がする。バランスをとる感覚が素晴らしい。事実、以上の’70年代作品を率いての、米や欧州各地での、個展や二人展(男の同性愛を扱ったアンガーらとの)での上映後の観客らとの、反応·トークを並べた、と言うよりズーム·寄るを多く噛ませた6本め『オーディ~』では、新風·風穴開け、共感·同調、地域風土自覚、戦略可能性、ジェンダー意識の現状らが、意気込まず·根強く深く引きづりながら、日常会話の延長線上に、間を置かず発せられられ続けてく。興味持ちつつも、何十年も中断してたハマー探求を再開したい気が増してくる。
 それにしても、ハマーがジェーンと知己で、ブラッケージを頂点とする、ニューアメリカン·シネマとしっかり結びついていた親近感。生活·政治信条と同じ位に、映画に対する奢りのない、誠実なスタンスが素晴らしい。そして素材復元に助力のルーカスも(勿論スコセッシらも)含め、私は明らかに遅れて’70年代に入ってからだが、全ての映画好きは、直接·間接の差はあっても、ニューアメリカン·シネマの薫陶を受けている感を改めて。
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